「世界一ゆるい(せかゆる)聖書入門・聖書教室」シリーズで、文字通り一世を風靡(ふうび)した上馬キリスト教会ツイッター部。このブレイクによって一気に人気作家の仲間入りを果たした(?)ツイッター部の「まじめ担当」こと、MAROさんの最新刊が本書『上馬キリスト教会ツイッター部のキリスト教って、何なんだ?』である。
第1弾『上馬キリスト教会の世界一ゆるい聖書入門』では、聖書のトリビアやキリスト教業界用語の解説という、どちらかというとピンポイントな視点で、聖書の世界を分かりやすく解説した。それに対し、第2弾の『上馬キリスト教会ツイッター部の世界一ゆるい聖書教室』では、もう少し物語的に聖書の世界観を敷衍(ふえん)し、ヨコのつながりを持たせることで「点を線に」する作業を行ってくれたように思う。
ちなみに、私が教えている同志社大学の学生に両書を紹介すると、「入門」から「教室」へ進んだ人がいる一方、意外に「教室」から「入門」へと立ち返るパターンも見受けられた。いずにせよ、学生たちは絶賛である。ここまで評価が高いと、他の神学書やキリスト教入門書のことが心配になってしまう。
そんな中、MAROさんによる最新刊が発売された。今回最も注目すべきは、その出版社である。前著までは講談社であった。これは押しも押されもせぬ大衆向けの最大手である。そして今回はダイヤモンド社。自己啓発本やビジネス書を主に出版している、これまた大手ではあるが、主に社会人向けに特化しているともいえよう。格が上がった? おそらく著者はそんなことを思っていないだろうが、着実に作家としてステップアップしているといえるだろう。何より、キリスト教関連の本がダイヤモンド社から、しかも「キリスト教って、何なんだ?」というストレートなタイトルで出版されたことは、一宗教家として大いに感動している。
さて、その中身である。キーワードを勝手に決めさせていただくとしたら、見事な「置き換え」である。さすがビジネス関連の出版社らしく、聖書やキリスト教の中で当たり前に使われている言葉を、ビジネスマンがよく口にする現代的な用語に分かりやすく「置き換え」ている。前者は、キリスト教関係者や神学者にしか通用しなかったり、信者以外の人には「?」でしかなかったりする「キリスト教業界用語」である。それをビジネス用語に置き換えることで、聖書やキリスト教に対する敷居が低くなっている。本書の幾つかの箇所では、段差が完全になくなっていると思わされた。
本書は、大きく分けて3章立てになっている。第1章は「ざっくり知るキリスト教」。ここでは聖書や宗教としてのキリスト教の基本的な枠組みを解説している。このあたりは「入門」のダイジェスト的な印象がある。だが、その当時よりも深く追究した結果を見ることもできる。例えば、60ページには「1600年かけて伏線回収する壮大なストーリー」という項目がある。これは、旧約聖書の預言に対し、イエス・キリストの誕生によってこれらの預言が成就したということを示している。そして著者はこう結んでいる。
古墳時代から令和時代への伏線がたくさん張り巡らされ、しっかり繋(つな)がっているような本があったら、驚きますよね。そんな驚くべきことが実現してしまっているのが、聖書です。「1600年の伏線回収」・・・なんだかロマンを感じませんか。(61ページ)
ここまでの踏み込みは、前著までにはなかった。言い回しの洗練さもさることながら、やはり書き連ねてきたことで、著者もまた、深く探求することができたのだろう。
第2章「クリスチャンから見た世界」は、前述した「置き換え」のオンパレードである。特にビジネス関係を強く意識した置き換えが多く見られた。具体例を見ていこう。139ページからの項目は「聖書は『脱・コスパ』の書」となっている。コスパ、すなわちコストパフォーマンス(費用対効果)のことである。MAROさんはここで、99匹の羊を置いて1匹を探しに出掛ける羊飼いというあの有名な例話を取り上げ、次のように解説して見せる。そのまま引用してみよう。
世の中の常識では「99頭を危険にさらして1頭を探しに行くのはコストパフォーマンスが悪い」ということになります。しかし、この羊飼いはイエス様の象徴です。イエス様はコストパフォーマンスを度外視して、いなくなった1頭を探しに行くというんです。もちろん私たちは人間ですから「効果が1でもあるなら、費用はいくらでも出す!」なんてことはできません。しかし神様にはそれができる、ということです。(141ページ)
ビジネスの世界で、常に「経費削減」「コスパ」「効率性」を追求している人にとって、このような切り口で聖書の中身を「置き換え」られると、よりしっくりと話の中身が理解できるようになるだろう。
第3章は、「ゆるーくたどる聖書ストーリー」。そして副題がふるっている。「聖書を読んだつもりになるために」(笑)。MAROさんのスタンスは、まさに「AさせたかったらBをせよ」的な「はずし」である。ある意味、第3章は従来の聖書入門の焼き直しである。多くの神学者、牧師が「分かりやすく、皆が聖書に親しめるように」と懸命に取り組んできた「聖書ストーリー」を彼独自の言い回しで展開したにすぎない。だが最大の相違点は、このような努力の結晶(第3章全体、および本書全体)を、「聖書を読んだつもりになるために」とあっさりと言い切ってしまうことだ。本当は、この本を手に取り読んでくれた人たちが教会に来るようになってもらいたいし、できるなら同じクリスチャンになってもらいたいと願っているはずだ。しかしその部分も含めて笑いに変えるというか、あえて斜に構えるというか、こういったスタンスでキリスト教界を切り取った人は、私が知る限り今までいなかった。だから本が売れるのだろうし、(特に)未信者の人たちから絶賛されるのだろう。
本書こそ、ぜひ伝道に用いてもらいたい。だがあえてMAROさん流にこう締めよう。
「伝道することが重荷となっているクリスチャンのあなた。本書を手渡せば、伝道した気になれますよ!」
■ MARO著『上馬キリスト教会ツイッター部のキリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社、2020年7月)
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