まだ駆け出しの伝道者であったとき、個人伝道、特に「入信の決心の導き方」を学んだ(神学校ではそういう授業はなかった)。新鮮で、決心者が与えられることがうれしく、駅の裏の暗がりで、野原で、人をつかまえると決心を迫った。そうしてたくさんの決心者が出た。だが、礼拝には結びつかなかった。
のちに学生伝道に従事し、そこで入信の決心とは何なのか、を聖書から探った。ペテロの回心史を示されたのは、その頃である。彼は漁師をしているときに、イエスに従う。この人はメシア(エノク書にあるような救国の将軍)かもしれない、だから先物買いをして、この人をつかまえておけ、と思ったらしい。
そうして主と生活を共にし、悪霊の追い出しの力も頂く。主イエスに愛され、そば近くでみわざと栄光を見る機会を頂く。変貌の山では、主イエスの栄光を見て、この方こそ「神から遣わされた救国の将軍(メシア)」であるとの確信を持つ。
やがてヤコブとヨハネの母親が来て、政権を取ったときは息子を総理と官房長官にと頼み込む(あなたの右と左に・・・)。すると弟子たちの全員が、憤激する。抜け駈けは許せないのである。おまけに母親を連れて来るとは、というわけである。誰も「バカな、主イエスの救いは霊的なものなのだぞ」とは言わなかった。皆このお方についていれば、やがて栄耀栄華!と思っており、ヤコブ、 ヨハネと同一レベルだった。
ところが、主イエスの逮捕があり、ペテロは主を否み、やがて主の死。復活があるが、なかなか信じられない。そうして復活の主からの任命、「わが羊を養え」を頂く。40日後に、主にお会いする、その時も「国を回復するのはいつですか」 などと聞くが、救国の将軍で、政権をお取りになるはずだからである。主は、それには答えず昇天してしまう。
ペンテコステの日、聖霊の豊かな注ぎを頂いて、弟子たちは復活の主の証しを始める。「復活の力が、私たちを強くする」。これが彼らの知らせである。使徒行伝の13章になって、やっとパウロを通して「身代わりの救い」 が宣言されたのである。
このようなペテロの回心史を見て、のっけに「あなたは罪人であると信じますか」と問い、「十字架の身代わりを信じますか」と聞き、「では祈りましょう」では、福音は十分には伝わっていないことを悟った。十字架の福音とは、もっと多くのものを含んでおり、豊富なのである。また同時に、十字架を強調して復活を忘れることの危険も示された。
そののち、使徒行伝のパウロの4つの伝道説教を学び多くを示された。
1) 14章・ルステラ
人々はパウロたちを神とあがめている。だから、何でも言うことを聞く感じである。だがパウロは創造神の説教をするのみで、 それだけに留めて、偶像のむなしさと、創造神の存在を教える。
2) 17章・アテネ
創造神と神の審判を教える。プラトンのパイドン(『パイドーン』新潮文庫)を読むと、ギリシャ哲学が輪廻を教えていることが分かる。輪廻主義によると、世界は永遠の過去から始まって、永遠の未来にまで続く。生命はその中で、ずっといろいろなものに生まれ変わりながら存続する。下卑たことをして生きれば、次は動物や虫ケラになる。高貴な生活を送れば人間になれるが、まあせいぜい女くらいである!(これがプラトンの女性観である)しかし、智恵を愛して生きれば、哲学者やまた王族に生まれ変わる・・・。だが、しょせん肉体のうちに居ることが罪なのであり、肉体(希・ソーマ)は霊魂の墓(希・セーメイオン)である。これから解放されることこそ、救いである。霊魂だけの状態になると、輪廻が停止する。それが、至福の形態である。
これに対してパウロは、世界は神により創造されたこと、最後の審判があり、物質は永遠でないこと、被創造物自体に罪はないことを告げる。つまり聖書的な宇宙観、生命観、歴史観の提示である。パウロは、ここで輪廻に対決しているが、アジアに生きる者として、我々の精神的環境との親近性を見て驚くのである。
パイドンにある「肉体から離れての霊魂だけの永世」については、オスカー・クルマンの『霊魂の不滅か死者の復活か』(聖文舎)がよく論じている。ただパウロの輪廻主義との対決は、論じてない。やはり西欧人にとっては、これは遠いことなのだろう。
ただ、近頃はニュー・エイジなどという形で、ゆるやかな輪廻主義が復活している。これは精神医療との関連から始まったのであるが、自分が千何百年も前に実はエジプトの貴族だった、などと分かると癒やされるという。そういうような物である。輪廻の根は深い。決して、鎌倉時代以前だけのことでない。
(マルチン・ロイド・ジョーンズは、このアテネの説教について、パウロは福音を語らなかった。だから、これは失敗だったと言っている。他にも、そういう見方をする人があるが、これはしょせん西洋人の見方か、またはそういう定説に引きずられているのである。そうして、パウロが経験した大きな対決を見落としている。)
3)22章・エルサレムの群集
イスラエル人であることが、神の恵みを自動的に保証しているのではないことを告げる。
4)13章・アンテオケの会堂
イエスの死によって義とされることの宣言。
使徒行伝の中で、パウロが未信者に対して語った説教は、以上の4つである。パウロの説教は、すべて伝道説教である。しかし彼は、4回とも異なったレベルの聴衆を相手にしている。そうして相手の知識と状況に従い、内容を変えている。
特に創造神の存在と支配、終末の審判が彼の説教の基礎であることが分かる。輪廻説は、聖書的な世界理解の対極にある。輪廻説には神は不在で、神の代わりに「輪廻の法」が神のような顔をして鎮座している。
パウロが、イエスの死による身代わりの救いを述べるのは、聖書的な宇宙観を受け入れている者、つまり準備の整った者に対してのみである。彼は身代わりの救いを乱発してない、見境いなく誰にでも語るのでなく、準備のできたものに狙いを定めて語っていることが分かる。伝道とは積み重ねである。まず基礎となるのは、創造主としての神を知らせること、神の審判のわざを教えることである。 伝道とは、ワンマンプレーではなく、協力の業である。自分の努力がすべてである、などと思ってはならない。あとに来る者に託す姿勢が大切である。
米国においては、トーレーの「個人伝道法」が生まれ、現在も多くの超教派伝道団体において、これが採用されている。キリスト教国である米国では、キリスト教的な思考のバックが備わっている人が多くあって、それが、このような伝道法を可能にさせている理由ではないか、と思われる。
日本では、ホテルのキリスト教結婚式に出たことがあるくらいで、教会の敷居をまたいだことはない。あとはクリスマスに「きよしこの夜」を聞くくらいという人が、大多数である。入信の決心を求めるのは、本人の時が満ちた、その時だと言えよう。そうして、その「時の満ち」は主イエスとペテロの関係から見ると、交わりの中で満たされていくように思われる。
クルセード方式の伝道会が必ずしも成績を上げていない理由は、ここにもあるような気がする。教会のさまざまな交わりにリピーターのように繰り返し来てもらう。そのような人に自分たちの伝道会をする。それがたぶん有効なのだろう。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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