賜物
社会では大きい役目を持っている人であるのに、教会では何もしてない、させてもらえていない例が非常に多い。せっかくの賜物が活きていないのである。それは「教会とはこういうものだ」という既成の概念が先に来ているからでないか。だから5段まで昇格しないと発言させない。皆がどのような賜物を持っているか、それをどう活かすかということは、後回しになってしまう。今まで考えてきたように、教会が持つ文化の枠を自由に考えるなら、もっと活発な姿が浮かんでくることだろう。
タラントのたとえでは、商売をした者、資金を動かした者が褒められている。現実の商売には、リスクがいっぱいある。下手に金を動かさなかった方が、損失が少なかったのではないか。地に埋めて隠しておいた方が賢かった、という例はあり過ぎるほどのはずである。
秘密は何か、それは「仕える」ために能力を使ったということである。神からの能力は、奉仕のために使うのである。その時、失敗も込みで主はすべてをプラスに評価してくださる。畑に埋めておいて、元金の安全を図った人が評価されなかった理由は、そこにある。神から頂いたもので「奉仕」するつもりがなかったのだ。また、神と隣人への奉仕のために使うつもりになるとき、その瞬間から自分に賜物があることが発見できる。教会は、そのための場所である。だから、まだまだと言って賜物を発揮させない教会は、奉仕の機会を奪っているのである。
教会は、主イエスと信仰の友との交わりの中で、自分の賜物を確認する場所である。社会でも家庭でも無視されているように思い、疎外感を持って来た人が、教会では「〇〇ができる人」とか「××なら〇〇さん」というように認識される。こうして、その人が喜んで活躍できる場所になる。やがてそれは、家庭と社会におけるその人の在り方を変える。
社会では存在感があるのに、教会では別に何もさせてもらえてないとすれば、これはまったく逆である。西欧的な教会を目指し、それをコピーしようと思っていると自由がなくなる。賜物は無視される。教会が持っている理想(実は虚像)に合致しないと、出番がないのである。賜物が用いられるとき、教会は生き生きとしてくる。
筆者は、自分の教会である賜物の必要を感じ、そういう人が与えられるよう祈っていた。そうすると、友人の牧師に注意された。主は教会をもろもろの賜物で「祝された」とある。すでに祝され与えられている、それを感謝しなさい、と教えられた。それで素直に感謝の祈りを始めた。しばらくたつと、話しに来た信徒がそのことに重荷があることを打ち明けてくれた。なるほど、人材はすでに与えられていたのだった。
家の教会
教会とは(決定的な代案がまだ見つかってないので、ここでは「教会」という名称を使っておく)そもそも何なのか。それは礼拝のための集団であり、そのために定めた場所でもある。部族的な時代はテントの礼拝所、市民生活になってからは神殿の礼拝、捕囚時代後はシナゴーグとなった。それぞれの文化によって、礼拝の形式も教会の在り方も違ってきたのである。
テントの礼拝所についてはその設計、そうしてその通りに実行されたことが報告されている。だから出エジプト記には、まず丹念に神からの指定が記録されている。またその通りにやりました、という報告も律儀に記録してある。
つまりほとんど同じ内容の文章が2回繰り返して書いてある。出エジプト記の25〜30章は、テントの礼拝所建造のための神の指示書で、35〜40章はその通りやりました、という報告書である。だからこの2カ所は、ほとんど同じ内容が繰り返されてある。
ところが神殿の建設になると、事情は一変する。何と神殿の建設では、事後報告のみである。幕屋の時は、あれほど微細に指示が出ていたのに、である。
いまやイスラエル社会は、遊牧民から変化して定住民となり、都市生活も始まっている。その生活様式に合致したものをつくったのが、神殿だった。基本的な方向としては、テント礼拝所の設計の精神に基づくということだった。神殿の建築は、テントの礼拝所の精神に沿って、人々の生活に適応し、さらに拡大されていった。中心の目的は、テントの礼拝所の精神が活かされるということである。だから材質、寸法、構成などについて事後報告があるだけで、神からの指示の記録はない。当然、神は指示されただろう。しかし、その指示は聖書に再録せぬよう聖霊が導かれたということに違いない。
さらに、新約聖書時代にあったシナゴーグの礼拝になると、指示も説明も報告もないのである! シナゴーグは新・旧の両約中間時代に発生した。国は滅び、神殿はなくなり、神殿における子羊の奉献の祭儀が不可能だった。(子羊奉献を行う神殿はエルサレム市内に置くことになっていた)
それで、シナゴーグ(集会)がつくられた。このシナゴーグという名称自体が、もうギリシャ語で、ヘブル語ではない。これは正規の礼拝でなく、やがてエルサレムにおける礼拝が復活するまでの時限的な対策で、補完的なものであった。シナゴーグでは、子羊の奉献の祭儀がなく、その代わりに預言書の解説があった。正規の礼拝が中断されている間に、御言葉の説き明かしを中心とする礼拝が発生したのである。
新約聖書の主イエス礼拝は、シナゴーグ礼拝の形式に従って発展し、異邦人世界に広がっていき「家の教会」を形成した。「家の教会」という名称からは、その置かれた場所の文化が大きく関わっていることが理解される。
「家」とは、その社会の文化が一番ナマの形で、あまり洗練されていない形で存在する所である。「家」とは正装をしない場、いわばステテコでいてもいい場所である。その国民がリラックスできる場所である。異国的な雰囲気ではない。日常生活とは非常に違っていて、そのために緊張する、というような所ではない。その所在地の「地の」文化が、礼拝の中に侵入してもよい場所である。その意味で、新約聖書の異邦人教会が「家の教会」といわれているのは含蓄が深い。こうしてユダヤ人クリスチャンは、シナゴーグの礼拝に出たが、 異邦人は自分たちの「家の教会」で礼拝した。
日本の文化は、人間を独立した個人と見るよりは集団の中の部分として見、また集団からの制約を受け入れる人間として見る傾向が強いことは、常に指摘されるところである。そのような文化も拒否せず受け入れて、旧約聖書に教えられながら日本的な「キリスト教的人間理解(神学の一部門としての人間論)」を成立させ、それに合致した教会をつくることは可能であろう。
そうすると、「教会論」は西欧の「個人が契約しあって結成する会」ではなくて、むしろ「キリスト教的な人間集団論」の一部としての「家族論」があり、それと並んで「教会論」が成立することになる。
その点において、組織神学(キリスト教思想の全体をいう)の部分的な書き換えが必要となろう。契約神学についても、旧約聖書中の「契約」とそれにまつわる諸慣習をヘブル語で読むのと、組識神学中の契約の概念とはずいぶん違うので、かなりの読み込みがあることを感ぜざるを得ない。
いまや横文字の教科書を翻訳して、日本の教会建設をする時代は過ぎた。また同時に、宗教改革の時代のプロテスタント教会の姿を絶対視して、それを日本で再現しようと努力するのは、正しい方向のようには思えないのである。
ハウス・テンボスでは、うまくいかないのである。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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