立教大学の正門に立つと、時計台のある緑豊かなツタに覆われた赤レンガ造りの建物が見える。同大のシンボルとなっている本館だ。その両側には同じく赤レンガ造りの建物2棟が建つ。正門から見て右側が「立教学院諸聖徒礼拝堂」と呼ばれる同大のチャペルで、1月25日で聖別(献堂)100周年を迎えた。
大学のチャペルであるとともに、日本聖公会の教会でもあり、毎週日曜日には一般信徒も参加する礼拝が行われる全国でも珍しい礼拝堂だ。現在は東京都選定歴史的建造物でもあり、21日には同礼拝堂を会場に記念講演会が開催された。講演したのは、西洋美術史が専門の加藤磨珠枝(ますえ)教授(文学部キリスト教学科)で、「諸聖徒礼拝堂から読み解く、立教大学100年の歩み」と題して、同礼拝堂の歴史を紹介するとともに、「教育と伝道の拠点」として用いられてきたその歩みを語った。
「教育と伝道の拠点」として
立教大学は、米国聖公会の宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教が東京・築地の外国人居留地に開設した私塾「立教学校」に端を発する。後に現在の池袋キャンパスがある地に移転するが、その最初期に建設されたのが本館や同礼拝堂を含む赤レンガ校舎群だった。最初の移転計画案を作ったのは、同大の2代目校長(学長)で、築地の校舎も設計した建築家でもあるジェームズ・マクドナルド・ガーディナー。実際に設計を行ったのは、米国の建築事務所だったが、当時の構想スケッチなどから校舎群全体がひとつの調和のもとに計画されていたことが分かる。
キャンパス移転の構想は、1907年に文部省から大学設置認可が下り、さらに築地キャンパスが手狭になってきたことから持ち上がった。当時の池袋は、水道もまだ整っていない未開の地だったが、地価や駅に近いという利便性から選ばれた。また、この移転は日本聖公会にとっても重要な意味を持っていた。教会が発展したことで、日本人教役者の養成が求められ、また米国聖公会からより独立した伝道が模索されていたからだ。そのため、同礼拝堂は建設当初から「教育と伝道の拠点」として重要視されていたという。
関東大震災と太平洋戦争という2つの試練
1916年に定礎式、19年に落成式、そして「使徒聖パウロ回心日」である20年1月25日に聖別式が行われた。だが、その約3年半後の23年には関東大震災で被災し、甚大な被害を受ける。修復には建設時とほぼ同程度の費用がかかったとされているが、米国聖公会からの多大な支援があり、25年には修復感謝礼拝がささげられている。この修復により、祭壇側の北壁にあった縦長の窓が丸窓になったり、レンガ積みの内壁が白の漆喰(しっくい)と茶褐色の木材による2色のデザインになったりするなど、変更された部分もあったが、多くは建設当時のデザインが再現された。
関東大震災の次に同礼拝堂が経験した試練は、太平洋戦争だった。日米関係悪化に伴い、当時、米国聖公会宣教師団の最高責任者であったチャールズ・シュライバー・ライフスナイダー主教は1941年、北関東地域の米国人宣教師全員の離日を決める。42年には礼拝堂が「修養堂」と改称され、後に閉鎖。戦時中は幸いにも空襲は免れたが、木製の内部装飾や聖書台、会衆席の長椅子は防空壕の材料に回され、礼拝堂はカンパンなどの非常用食料の備蓄庫として使用された。
伝道視点で考えた日本側の意向
礼拝堂の歴史を概観した上で、加藤氏は次に礼拝堂の内装に目を向けた。キャンパス構想全体は、当初の計画から大きく変更されなかったものの、礼拝堂内部については大きく変更が加えられている。当初のスケッチ案では、会衆席の長椅子が、通路を中央に対面するよう配置されていた。これは英国のカレッジ建築の特徴で、オックスフォード大学のマートン・カレッジ礼拝堂などで現在も見られるものだという。いわば、学内専用の礼拝堂の造りだ。
しかし、実際に建設された礼拝堂では、長椅子は祭壇に向かう形で平行に並べられている。この変更について加藤氏は、「一般的な教区教会としての役目もあるため、変更が加えられたと考えられる。学生と教師のためだけの礼拝堂ではなく、一般信徒にも開かれた伝道の拠点としての積極的な理由からの変更。恐らく日本側からの要望だと思う」と語った。
また当時の資料から、日本側と米国側の意向に相違があったこともうかがい知ることができる。米国聖公会の伝道機関紙「スピリット・オブ・ミッション」(1916年2月号)に掲載された「伝道に相応しい建築」と題した記事には、同礼拝堂について次のように記されている。
建物は先に提案され日本側が断固反対した和風の建築様式ではなく、カレッジ式ゴシックといわれるゴシック様式に手を加えて簡潔にしたものである。
加藤氏によると、米国聖公会は20世紀前半、教会の建築に現地の建築様式を採用することが多かった。中国には中国の建築様式で建てられた当時の教会があり、日本でも現存する奈良基督教会のような和風建築の例がある。そのため、米国側は立教大学にも和風の礼拝堂を提案したと考えられるが、日本側がそれに強く反発し、ゴシック様式を希望したことがうかがい知ることができる。
ゴシック・リバイバル
その上で加藤氏は、日本側が強く望んだゴシック様式について解説した。加藤氏によると、ゴシックとは本来、12世紀半ばから15世紀にかけて、欧州全域に流布した美術様式。ゴシック(Gothic)という言葉は、ゲルマン系ゴート人に由来するが、直接的な関係はなく、後のルネッサンス期のイタリア人が北方の異質な中世美術を「野蛮な」ものとして指すのに用いた蔑称から、この名称が定着した。ゴシック建築はパリ周辺で発祥し、その後欧州各地に広がり、さまざまな大聖堂建築で取り入れられた。
その後、ルネッサンス、バロック建築の台頭やカトリック宗教改革により、ゴシック様式に代表される中世建築は一時期、時代遅れなものと見なされる潮流が生まれる。しかし18世紀に入ると、英国を中心に「ゴシック・リバイバル」と呼ばれる中世回帰が始まる。英国の当時の神学的拠点の一つであったオックスフォード大学は、中世の伝統的街並みを生かした新たなゴシック様式で増築されていった。このゴシック・リバイバルは、19世紀前半の英国国教会における伝統的理念の回復、歴史的連続性を強調する「オックスフォード運動」とも共鳴した。そして米国でも、19世紀以降に見られる急速な近代化と工業化に対するアンチテーゼとして取り入れられたという。
そうした経緯を踏まえ加藤氏は、信仰に対する理解・探求を支えた英国カレッジの学問的伝統と共鳴する形で用いられてきたゴシック様式を、「教育と伝道の拠点」と位置付ける同礼拝堂のデザインに採用したことは、理に適ったことだったと語った。
鷲の聖書台
最後に加藤氏は、礼拝堂で一際目立つ鷲(わし)の形の聖書台について語った。鷲の聖書台は、同礼拝堂建設時から設置されていたものだが、オリジナルのものは戦時中に失われている。現在のものは、立教大学の教授であった故小川徳治氏が、英国のエリザベス女王の戴冠式(1953年)に日本聖公会を代表して出席した際、英国国教会マンチェスター教区の故レオナルド・ウィルソン主教から譲り受けたものだ。
小川氏とウィルソン主教は戦時中、非戦闘員収容所長と捕虜という立場にあった。聖公会の信徒であった小川氏は、捕虜だったウィルソン主教らを最大限丁重に扱い、教会活動も可能な限り認めるよう働き掛けたという。そうしたこともあり、エリザベス女王の戴冠式の際、ウィルソン主教が日本からの代表者として真っ先に指名したのが小川氏だった。
小川氏が渡英先で、戦時中に失われてしまった同礼拝堂の教会用具を探していることを知ったウィルソン主教は、必要なものがあれば、マンチェスター大聖堂の所蔵品から自由に選ぶよう勧めてくれる。そこで小川氏が選んだのが、現在の鷲の聖書台だった。金色に輝く真鍮(しんちゅう)製の聖書台もあったが、小川氏はあえて木製のものを選んだという。それは、かつて同礼拝堂にあった聖書台と似ていただけでなく、台の脚部に祭壇と一致するゴシック装飾が彫られていたからだった。地味ではあるが、精神的調和を求めたのだ。
「戦前を含め、この100年間の歩みをそのまま包み込み、その足跡を残しているのが現在の礼拝堂」。内陣仕切りなど、失われてしまったものも存在するが、加藤氏はそれも会衆と一体感のある今日の礼拝堂をつくるために功を奏しているとし、同礼拝堂には「伝統と革新の良いバランスがある」と述べ、講演を締めくくった。