人気ツイッター「上馬キリスト教会」の「中の人」2人が新刊『上馬キリスト教会ツイッター部の世界一ゆるい聖書教室』(以下『せかゆる教室』)を発刊したことを機に、「まじめ担当」であるMAROさんこと、横坂剛比古さんを再び同志社大学の授業へ招待することになった。しかし、それは単なる「特別講演」だけでなく、毎日放送が取材に来るというビックリ企画がおまけに(?)付いてくることになった。しかも、MAROさんだけでなく、筆者にまでカメラを向け、インタビューをさせてもらいたいという話に発展してしまった!
授業前のインタビュー
MAROさんを招いての授業があったのは12月18日(水)。水曜日の3限は午後1時10分からであったが、筆者もMAROさんも少し早めに取材チームとの待ち合わせ場所に足を向けた。取材チームとの待ち合わせは、授業が行われる建物の入り口に午後12時半であった。確かにその時間に行くと、テレビカメラとさおのような長いマイクを抱えた数人の男女が私たちを出迎えてくれた。
手短にあいさつすると、そのまま教室に向かい、学生がまばらな状態の中、筆者へのインタビューが始まった。緊張した面持ちで幾つかの簡単な質問に答えた後、いよいよ本題に入った。
「どうして『せかゆる入門』を授業のサブテキストにしようと思われたのですか?」
ここから15分くらい、インタビュアーの人とはいろいろな話題で盛り上がった。ついにカメラの人が「そろそろ・・・」と声を掛けて制止してくるほどであった。
その後、取材チームは次第に集まってきた学生たちにインタビューを開始した。ちょっと強引な気もするが、いきなりのテレビ取材にも学生たちは動じることなく、思い思いの言葉で『せかゆる入門』の感想や面白かった点を語っていた。事前に「明日はテレビが入る!」と一斉メールしておいたせいか、彼らは私ほど挙動不審な感じではなかった(笑)。
MAROさんの講演
そしていよいよ、MAROさんの講演が始まった。前回同様、今回も段取りなしの「ゆるい」感じの講演であった。おもむろにあいさつし、それから学生たちからの質問に一つ一つ丁寧に答えてくれた。テレビカメラがその様子を時には遠くから、そして講壇のすぐ横まで近付いて撮影していく。あんなに近付いたらやりづらいだろう・・・と思うくらいの距離まで接近して撮影していたのには驚いた。
そして30分ほどでテレビは教室から出て行った。取材チームも会釈をして姿を消した。するとMAROさんは「さあ、ここから本題に入ろうか!」と笑いを取り、学生からの「アブナイ」質問に次々と答えていく――。
話がどこにいくか分からない中、MAROさんはあちこちに話題を振りながら、学生たちの反応を確かめていた。そして一番食い付きがいいところにどっしりと構えて、持論を展開する。しかも必ずそこに聖書の話やおもしろいエピソードを加えるため、学生たちも飽きない。中にはご丁寧にメモを取る学生も現れた。
講演はあっという間に終わりを迎えた。質問コーナーでは、幾人かが手を挙げてくれたので、そこでまた面白い話を幾つか聞くこともできた。何より「聖書ってそんなに堅苦しく読む必要はないんだよ」というメッセージに込められたMAROさんの温かさが、学生たちに伝わったことを確信できたことがうれしかった。
令和時代の「現代キリスト教伝道事情」
この一日を振り返るとき、大学の講師としてではなく、一地方教会の牧師として思わされた幾つかのことがある。それを列挙して、本稿のまとめとしたい。
第一に、MAROさんの「ゆるさ」は、一種の「演出」であるとともに、彼自身のパーソナリティーからにじみ出る「温かな人柄」であるということ。
昨今、SNSを利用して教会案内をシェアしたり、キリスト教「伝道」に熱心に取り組んだりする教会や牧師、クリスチャンが増えてきている。何か「秘密のツール」でも見つけたかのように情報発信に熱心になってきている。しかし気を付けなければいけないのは、そのような「形式」にのみとらわれてしまって、肝心の「中身」、つまり発信者のパーソナリティーや発信の内容、言い回しにオリジナリティーが見られなくなってしまうことだ。実際に、オリジナリティーがほとんど感じられないものが多いように思う。特に「せかゆるのように、ゆるく、私も」的な発想で「教会大喜利」をやたらと発するのは、付け焼刃的なメッセージを提供しているようにしか見えない。つまり、しょせんは「二匹目のドジョウ」でしかないのである。
MAROさんの講演が、「話がどちらに進むのか分からない」やり方であることは上述した通りである。しかし、実際に彼の話し方、論の展開を近くで拝見させてもらうことで分かったのは、彼が醸し出している「ゆるさ」は、それを生み出すべく考え抜かれ、研ぎ澄まされた感性の集大成だということである。そうでなければ「せかゆる」シリーズのような著作を連発することはできない。おそらく本人は無意識で話の流れを作っているつもりだろう。しかし、その過程でどれくらい精密かつ繊細に聞き手の反応を伺っていることか。やはり、SNSというインタラクティブな世界で一定のフォロワー(読者)を獲得している理由があるなと思わされた。私たちが彼を、そして「せかゆる」をまねして同じようなことをしたとしても、せいぜい数週間で馬脚を現すことだろう。
第二に、MAROさんが学生と向き合っているまさにその現場で、実は落としどころとして彼らに見せている世界は、実にシンプルで、しかも分かりやすい着地点であるということ。その決定的な要因は、彼が用いている言葉の平易さにある。つまり「キリスト教業界用語」をさらりと用いた後、丁寧にそれを解説し、しかも現代の若者が分かるような面白おかしい「たとえ」でこれを言い換えているからである。
そういった意味で、彼の講演は決して「ゆるく」ない。恐ろしく「言葉」にこだわりを持って相手に分からせようとする「固い決意」が垣間見える。それを生み出しているのは、やはり彼の中にある信仰である。
第三に、私たちはMAROさんから学ぶことがあるとしたら、それは各々のオリジナリティーをとことん追求することで、必ず道が開けてくるということである。
伝道方法に定式化された王道はない。時代が変化しているのだから、それに合わせた伝道方法を常に模索する姿勢が求められている。たとえどんな大教会の牧師であっても、信仰歴の長いクリスチャンであっても、一方、駆け出しの神学生や洗礼を受けたばかりの信徒であったとしても、それは同じである。
「福音」という普遍的な価値観を、目まぐるしく移り変わる「この世」に対して提示することを目指そうと志すなら、常に時代をリサーチし、現在の自分がお得意とする伝道方法を、どのようにマイナーチェンジさせていくかを模索すべきである。
そう書きつづっていて、これは至極当たり前のことであることに気付かされる。MAROさんは、MAROさんが勝負できる土俵とそのルールに則って相撲を取っているだけのことである。同じやり方をただまねするだけでは、一日で人気ユーチューバーになったり、フォロワー10万人を獲得したりできないのと同じく、「ゆるい」世界を堅く生み出すことなどできない。
だから私は、私のやり方を見いだす必要がある。そう気付かされたことが、2019年度の授業にMAROさんを2回お招きして私が得た成果である。
ちなみに、筆者のインタビューを含むMAROさんの講演の様子は、翌19日の午後5時から「ミント!」という情報番組で放送された。こちらがその動画である。
インタビュアーの人とは15分以上も熱く語り合っていたのに、ご覧になっていただくと分かるが、使われたのはわずか10秒程度である。まあ、こんなものか・・・。私ももう少し「ゆるく」話しておけば、尺が長かったかな?などと不謹慎な思いが一瞬頭をよぎってしまった。
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