岡上菊栄が高知県下の小学校教師として約20年間勤めて、安芸郡の小学校に勤めていたある日のこと、一人の恰幅の良い体を羽織袴で包んだ見知らぬ男が突然、菊栄を訪ねてきました。その男は高知慈善協会の理事で北村浩と名乗りました。北村の用向きとは、高知慈善協会が「高知博愛園」という“孤児院”を高知市内で開園するに当たり、その「園母」に菊栄を迎えたい、という要請を持ってきたのでした。菊栄は当然、北村のその真意を尋ねました。
「孤児や貧困児の救済に当たろうという、高知博愛園の仕事は実に立派なことだといえます。社会的にもかけがえのないもの。だけども、そんな大任を、なぜ私のような者に?」
その時、北村は土佐弁で言葉を崩して次のように即答したといわれています。
「なんちゃあ(別段どういうこともない)、女子師範出で訓導(教師)になっちゅう先生は、高い月俸をもらいゆう。岡上先生、おまさんは自力で准訓導になったがですろう? 本音をいうと、准訓導のおまさんの月俸が安いきにのーし。雇うには金のかからん方がえい。高知慈善協会にも銭があんまりないがぜよ」と言ったのです。
つまり、菊栄は小学校の教師としての給料が他の大方の教師よりも安いことを知って、菊栄なら博愛園の薄給でも受け入れてくれるだろうと思って要請に来た、ということを言ったのでした。もちろん、北村が菊栄の要請に来たのはそれだけが理由ではなかったでしょう。菊栄の日頃の子どもたちへの接し方や、特に貧困の家庭の子どもたちを助けようとする姿勢などを伝え聞いて、この人にぜひ、新しく開園する博愛園の第1代の園母になってもらい、この孤児院を軌道に乗せてもらいたいという気持ちが強かったからというのが、真意であったと思われます。
しかし、この歯に衣着せぬ北村の言い方が、かえって菊栄の好感を得ることになって「そうかよ、そうかよ、おまさんところはお銭がないがかよ」と声を立てて笑ったということです。この出会いが菊栄の人生を大きく変えていくことになったのでした。給料の多寡にかかわらず、自分の使命が何かを大切にする菊栄の姿がここにはっきりと出ていて、私は実に岡上菊栄らしいと納得しました。
(出典:武井優著『龍馬の姪・岡上菊栄の生涯』鳥影社出版、2003年)
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