国旗・国歌問題
日本には、日の丸・君が代に対するアレルギーがあり、クリスチャンの中には、これらに対する敬意の表明は偶像崇拝である、とする者もある。確かに前大戦にあっては、この2つの象徴のもと多くの血が流されたことは事実である。ただ、国旗・国歌を拒絶するとは、いったい何を意味するのか知っておく必要があるだろう。これには2つの要素がある。
1)君が代・日の丸の代わりに、これを採用すべきだ、と代案のある場合。国旗の意匠につき、また国歌の歌詞やメロディにつき代案がなくても、公募して代案を募る。この場合は国家、政府、国法の存在などを認めていることになる。国旗・国歌は、その象徴であるから。
2)代案を含まない場合。そもそも国旗や国歌は不必要である、そういうものがあるからいけない、という主張である。それは政府、国家、法律などを否定し、それらは必要でない、と主張していることに通ずる。もし、政府や法律は否定しないが、国旗・国歌は不要であるという立場なら、それを説明する義務がある。
どうもそのあたりが、整理されていないように見えることがある。そうでないと、ただ日本的なこれら2つの象徴がいやなのだ、と感情的に表現しているだけになる可能性がある。
日本評価の基準
もう一つ、大きな問題を含んでいるものについて述べておきたい。それは日本社会を封建的である、遅れているとして批判するのはいいが、そのとき、いったい何を基準として判断しているか、ということである。日本社会の批判をするのは大いに結構であり、必要なことである。欧米を引き合いに出すのも大いに結構である。欧米からは、我々が学ぶべきことは多くある。
しかし、問題が一つある。それは日本社会を欧米と比べて批判するとき、
1)欧米の社会の現実と日本社会の現状とを比較して論じているのか、それとも、
2)欧米社会が掲げる理想によって、日本社会の批判をするのか、ということである。
前者1なら、これはまったくクビをかしげたくなる。日本社会のほうがはるかに清潔、道徳的であり、人間が大切にされ、政治が清潔であり、ましだからである。
米国には、政治献金の問題など存在しない。なぜならそれを規制する法律がなくて、野放しだからである。大統領選挙には、何百億円の政治献金が寄せられる。それで選挙用のTVスポットをどんどん流す。献金額に規制はない。
政治寄金を規制する法案を出そうとすると、すべて潰される。政治献金も、言論の自由の表現の一つの形である。それを束縛するのは、憲法違反であるという建前である。だから利益誘導、賄賂は横行する。賄賂ではない。ロビー活動と言う。
米国の日刊、週刊の出版物を翻訳でなく英語でじかに読めば、米社会の荒廃のありさまが明白なので、それはまさに日本人の想像を絶する状態である。
ではもし後者2ならばどうか。それはもう乱暴で非常識である。ある社会が持っている「理想」で、他の社会の「現実」を批判する。それは正気の沙汰ではない。米国のごとく建前とホンネの違いが本格的な文化を持ってきて、日本を批判するなど見当違いも甚だしいのである。
「日本教会の指導者」が日本批判をやるとき、自分たちは1を取っているのか2を取っているのかを考えたこともなく、欧米社会の「現実」については知識がなく、欧米が掲げている「理想」の立派さを、ボンヤリ見て批判する。要するに欧米の実情が分かってないまま、欧米の建前にダマされているだけ、ということがある。
米国では理想を高く掲げる、それが重要なのである。その掲げる理想の現実化への手続きがあっても、なくてもいい。現実とかけ離れていてもちっともかまわないのである。
日本人は理想を掲げない、理想を堂々と主張しない。日本人が掲げるのは「理想」ではなく、達成可能な「目標」である。実現のための手続きが整っていて、あとは努力だけ、となっているものを「目標」として掲げる。日本社会では、実現不可能な、雲を掴むような理想をただ掲げたり、現実と矛盾するような理想を掲げると信用を失うのである。口がうまいだけでは、ダメなのである。
米国は理想の国である。実現可能かどうかは問題ではない。実現のための努力はしていなくても、理想を高く掲げるだけで評価してもらえる。現実はまったく「理想」とは矛盾しており、その解消のための努力や手順がなくてもいいのである。
日本は「目標」の国である。現実から乖離(かいり)した「理想」は掲げない。理想だけ言って後は放置していれば、ばかにされる。信用を失い、発言権を失う。
日本人が米国の「理想」を見ると、どうしても日本流に理解して、これは「実現可能な目標」に違いない、と思ってしまう。ダマされるのである。
米国人の方は、言いっ放しでもかまわない。ケネディーの演説など、格調が高くてエラく感心していた。ところが向こうに行って米国社会の現実を見ると、あんなに美辞麗句を並べやがって、と白々しくてまったくバカらしくなる。まさに「幽霊の正体見たり枯れ尾花」である。
だから日本人は米国の「理想」を見て、現実に近いのだと理解する。米国はもうそこまで行っているのか、などと考える。それに引き替え、日本はまだまだ、と考える。それが実情のようである。これは非生産的で有害、かつ有毒である。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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