朝の7時に、猫吊り通りの女主人の店は、店じまいを始めます。少年少女たちはいっせいに、店の片づけに駆り出されます。サダ姉は「しっかり働くんだよ。チリ一つ落ちていたらどんな目に合うか分かっているね」と言い捨てると、大あくびをして自分の部屋に戻りました。
アンナは「ぼうや」と並んで、店中の水拭きを始めました。「つらいね」。「眠いね」。そう言って目をこすり、ほほ笑み合うと、夜じゅう働いた疲れも癒えるようでした。
表のガラス戸を2人で磨いていると、まぶしい太陽が瞳を焼きます。アンナはとっさに目をつむりました。その時でした。しゃんと背筋の伸びた女の子が、うつむきながらガラス戸を押し開け、中に入っていったのです。
アンナは驚いて、振り返りました。どこかで見た女の子だった気がしたのです。「どうしたの?」とぼうやが聞きました。「・・・ううん。なんでもないの」。不思議そうに思いを巡らしながら、ガラス拭きの続きをしました。
マリヤは緑色のビロードの壁や、赤いじゅうたんの派手な内装に驚きながら、店の奥に進み、真ちゅうのドア鈴を鳴らすと、女主人の部屋に入って行きました。
女主人は一人掛けのソファにふんぞり返って、タバコをふかしておりました。「こんな時間に来るなんて、お前は本当に世間知らずなんだね」。そう言って不満げにタバコの煙を吐き出しました。
「すみません。急いでいたのです」。マリヤは頭を下げました。女主人は、舐め回すようにマリヤを見て、「ずいぶん育った娘だね、いくつだい?」と聞きました。「16になりました」
女主人は「ふうん」と鼻を鳴らします。「でもとてもまじめそうだね。こういう子は意外とよく売れるんだ」。そうつぶやくと、「まずはどれだけ働く気があるか、見させてもらうよ。1週間は見習いだ。炊事と掃除をしながら店のことを覚えてもらおう」と言いました。
マリヤは安堵(あんど)し、「ありがとうございます」と頭を下げました。そして、炊事部屋や、洗濯場や酒場や倉庫を案内されたあと、十畳ほどの雑魚寝部屋に通されました。雑魚寝部屋は板張りで、薄い毛布が何枚も乱雑に放られておりました。板のすき間からところどころ赤いキノコが顔を出し、気味の悪い、かび臭い部屋でした。
「ここで寝起きするんだよ。もちろん勝手に外に出るなんてもってのほかだ。よく働けば、外に買い物にも連れて行ってやろう。私は優しいんだからね、よく働くんだよ」。マリヤは女主人を見上げ、「まずはこの部屋のお掃除をしてもいいですか?」と聞きました。女主人は面白くなさそうな顔をして、「勝手にすればいい」と言いました。マリヤは床の隅にリュックを下ろすと、腕まくりをして、掃除道具の置いてあった倉庫に向かいました。
少年少女たちは皆、へとへとに疲れ果てておりました。午前10時にようやく掃除も終わり、まるで幽霊のように白い顔をして雑魚寝部屋へ向かいます。アンナは、「お手洗いに行ってくるから」とぼうやに伝えると、皆が部屋に戻ったことを確認して、そっと廊下を伝いました。
向かったのはサダ姉の部屋でした。そうっとドアを開け、「お姉さん」と呼びました。ベッドに横になっていたサダ姉は、うんざりした顔で振り向きました。「お前かい。なんだい、またほしいのかい?」。そう言うと、ゆっくりと起き上がり、鏡台の引き出しから銀の小瓶を取り出しました。
中にはピンクと銀色に輝く粉がありました。サダ姉はそれを指ですくうと、「おいで」と言いました。アンナはサダ姉のそばに行き、サダ姉はアンナの鼻の内側に粉をこすりつけました。「いい子だ。魔法の粉で、お前はもっと働ける」。サダ姉は笑い、手をネグリジェでぬぐいました。
アンナの体に薬が巡り、心の苦しみや体の疲れを拭い去ってくれました。そして、なんだか幸せな気持ちになってきます。まるで自分が、この腐敗した世界に舞い降りた妖精になったような気持ちです・・・。
「早くお戻り。お前だけかわいがってると、みんなにばれるといけないから」。そう言ってサダ姉はアンナのおしりをたたきました。
「お前だけだよ」。それはサダ姉のうそでした。そう言ってサダ姉は、少女たちを順番に部屋に呼びました。そして皆に「魔法の粉」を与えていたのです。いつしか、それなしではいられない、サダ姉のようになるように。
それは、よく働けるように、というだけではありませんでした。サダ姉は、無垢な少女たちを憎んでいました。「お前たちの誰一人、けっして幸せにならないように」。そんな思いを持っていました。
アンナは自分に羽が生えたような気持ちになって、両手をパタパタとはためかせながら、雑魚寝部屋に戻りました。ドアを開けると、はっとしました。いつもとは空気が違うのです。よどんだかび臭いにおいは消え、清涼な空気がアンナを包みました。カーテンを閉め切った薄暗い中でも分かります。床はピカピカに磨かれ、壁や板のすき間に生えていたキノコたちも根こそぎなくなっていたのです。
「誰がこんなにしたのかしら」。アンナが不思議そうにしていると、まだ起きていたぼうやが近寄って、「きっとあの子だよ」と指さしました。そこには、見慣れない女の子が毛布を掛けて眠っていました。とても疲れているようで、ぐったりと熟睡していたのです。
カーテンのすき間からわずかに漏れる光が、その女の子の顔を照らしました。アンナは目を見開きました。「マリヤ!マリヤね!」。マリヤはうっすらと目を開けて、あたりを見回しました。目をこすってアンナを見ると、今度は涙ぐみました。
「アンナ・・・」。アンナはマリヤに抱きつきました。「どうして、どうしてここにいるの?こんな所に!」。マリヤはアンナを抱きしめ返し、「どうして、あんなカードを送られて、助けに来ないわけがあるの? あなたは私の姉妹よ」と言いました。そして、「つらい思いをしているのね。大丈夫よ、きっとあなたを助けるから」とアンナを抱きしめる手を強めました。
アンナはとたんに青ざめて、マリヤの手をほどきました。「・・・無理よ。ここは恐ろしい所よ。・・・そしてとてもいい所でもあるの」。そう言うとうつむき、不気味に笑いました。「アンナ?」。「私はこの店の妖精なの。そしてみんなを幸せにできるの」。そう言って手をパタパタとはためかせて見せました。
マリヤはとっさに、アンナが恐ろしいものに手を染めていることに気付きました。そして、「そう。きっとあなたはみんなを幸せにできるでしょう。でも、今日はもうおやすみなさい」とアンナに毛布を掛けました。アンナは緊張の糸が切れたように、倒れるように眠りました。
マリヤは、まだ幼い少年たちが女物の服を着せられ、少年も少女もその幼さに似合わない化粧の施された道化師のような顔で眠っている様子を見て、拳を強く握りました。「なんていうことでしょうか。神様。あなたは何をしておられたんですか?」。怒りにも似た感情が、心に湧き上がり沸騰しているようでした。
「神などいない」。そう叫ぶ自分の心に驚きました。「神などいない」。そして、その声の中に悪魔の声色が重なっていることにも気付きました。
悪魔がすぐそばに、この店のどこかにいる気配がします。そして、マリヤを誘っていると感じました。マリヤは少年少女たちを起こさないように、そっと雑魚寝部屋を抜け出しました。
「いい・・・いい・・・」。そう笑う悪魔の声が、耳の奥に響きました。マリヤは悪魔の声に誘われるようにして、薄暗い廊下を伝いました。不気味な店です。今は真昼だというのに、この建物の中は寝静まった真夜中のようなのですから。
そしてたどり着いたのは、一つの簡素な木の扉の前でした。マリヤはそっとそのドアを開けました。オレンジ色のじゅうたん張りの小さな部屋の奥に、真ちゅうのベッドがありました。その上に、枯れ枝のようにやせ細った女性が眠っているのが見えました。
マリヤは足を忍ばせて、そっと近づきました。・・・とっさに目を覆いました。その女性・・・サダ姉には、体中に切り傷の跡があり、ネグリジェには血の飛沫の跡がたくさん飛び散っていたのです。サダ姉は、顔をしかめていびきをかいておりましたが、そのいびきは、「殺してくれ」「殺してくれ」と繰り返し言っているようでした。
マリヤは涙ぐみました。「どうしてこんなに苦しめるの?」。その問いは、悪魔に、そして神様にでした。「私の花嫁の姿を見たね。どうだい、美しい花嫁だろう」。そうささやいたのは悪魔でした。マリヤはうなずき、「そうね、こんな花嫁たちを、あなたはたくさんお持ちなのでしょう。そして私もその花嫁の一人にしたいと言うのでしょう」と言いました。
「よく分かっているね。さすが私の花嫁だ」。マリヤは首を振りました。「花嫁・・・これが花嫁と言うのですね。私は花嫁とは、シロツメクサの冠が似合い、純白の衣装に身を包んだ、白木蓮のようなおとめのことと思っていました」
そして、マリヤは苦しみのうちに言いました。「もしも、私があなたに命をささげれば、この女性も、そしてあの部屋の少年や少女たちも、あなたの手の内から解放してくださいますか?」
悪魔は笑いました。「・・・それはいい取引だ」(つづく)
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さとうりょうこ
1978年生まれ。埼玉県在住。2013年、友人の導きにより、日本ホーリネス教団久喜キリスト教会において信仰を持つ。現在、県内の障がい者施設で働きながら、加須市の東埼玉バプテスト教会に通い、2018年4月1日イースターに木田浩靖牧師のもとでバプテスマを受ける。フェイスブックページ「さとうりょうこ 祈りの部屋」。