アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている。(創世記22:13、14)
鹿児島に「妙円寺詣り」という行事があります。関ヶ原の戦いで敵陣に囲まれ、追い詰められた状況の中で突破したことを忘れないように体を鍛え、健脚を保つために隣町の伊集院町まで20キロの山道をおにぎりと水筒だけを持って歩いていくという行事です。小学生から参加します。中には甲冑(かっちゅう)を着けて歩く大人の人もいます。
私がずっと疑問に思っていたのは、妙円寺詣りであったはずなのに、到着した場所は徳重神社でした。しかも参加者に配られる伊集院まんじゅうの袋にも徳重神社と印刷されていて、どこにも妙円寺の名前がないのです。
150年前、明治になってから廃仏毀釈が起こり、特に鹿児島では激しかったということを後に知ることになりました。江戸時代には存在していた妙円寺が破壊されて、そこに神社が建てられたのです。
鹿児島ではお寺の破壊だけではなく、文化財にも指定されるような仏像の破壊、門徒に対する弾圧なども徹底していて、隠れ念仏として山の中や洞穴で仏教を守った時期もあったようです。曹洞宗の皇徳寺などは寺院のあった位置すら分からなくなっていて、かろうじて皇徳寺ニュータウンとして団地の名前が残っている程度です。
宗教間の対立や破壊活動、また歴史の書き換えなどがあるのは当たり前と思って歴史を学ばなければならないと思います。伝えられていることや教えられたことだけが真実ではないことを知らなければなりません。
中国でも唐の時代に原始キリスト教の流れをくむ景教が伝えられ、中国全土で宣教が許された時期がありました。時代が変わり、宗教施設の破壊、迫害などによりその痕跡が消されていきます。しかし、人名や地名にその名残があり、地中から掘り出される石柱に刻んである文字から痕跡をたどることができます。
古代日本はユダヤ教の影響を受けていて、その流れが神道の中にあると考えても不思議ではないと思います。古代神道はアメノミナカヌシを信ずる一神教であったという説があります。神社の構図や参拝の前に身を清め、手を洗うしきたりなどはユダヤ教に酷似しています。
古代神道に原始キリスト教が加わり、神道の神様は造化三神になります。天地宇宙を創造されたアメノミナカヌシ、その御子であるタカミムスヒ、聖霊なる神カムムスヒです。タカミムスヒがアマテラスオオミカミになるといわれます。
神道には神様がたくさんいらっしゃるといわれます。例えば、古事記に登場する神様が17柱といわれます。しかし、中心は三柱であり、あとは神様の働きを表す名称だといわれます。例えば、食物の神様、国家運営の神様などです。
全国の神社に祭られている神々はどうなるのかと聞かれることがあります。聖書に登場する聖人や天使の扱いになるのではないかと私は思います。八百万の神々と言われますが、「やおろず」とは無限という意味があると聞いたことがあります。
最近、歴史の教科書から聖徳太子の名前が消されるかもしれないと聞きました。実は、聖徳太子は厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれていました。聡明な方で数々の改革をなされたのは間違いないと思うのですが、聖徳太子の名称は死後に与えられたものです。
聖徳太子は原始キリスト教の流れをくむ神道に属しておられたのではないかといわれます。だから景教徒であった秦氏の方々を側近として取り立てたのだろうといわれます。原始キリスト教をゴリ押しするのではなく、宗教間の融和を訴え、仏教の保護にも尽力しました。
ところが、政治的勢力争いに巻き込まれ、49歳の時に暗殺され、一族20数名も殺されます。そのパワーを恐れる勢力があったのだろうといわれます。一族を供養するために太子の敷地に建てられたのが法隆寺だといわれます。後の歴史では仏教徒であり、法隆寺を建てた人となっています。
また、四天王寺も聖徳太子が建てられたことになっていますが、入り口には神道の古い形の鳥居があります。神社が破壊されて寺院が建てられた名残だといわれます。廃仏毀釈とは逆の動きが古代日本で起こったことをうかがい知ることができます。
神道はユダヤ教の影響を受けたかもしれないのに、肝心の教えの部分はなくなり、形だけが残りました。仏教も景教の影響を受けています。広隆寺の十善戒はモーセの十戒から来ています。洗礼や聖餐式の影響を受けた儀式が仏教の中に残っています。
残っているのは外側の形や形式だけかもしれませんが、その中に納まるべきものは聖書の教えですということがいつか理解され、すんなりとキリストの教えが届く日が来ると信じています。宣教困難な日本の社会ですが、信じて主の山に登れば、そこには主の備えがあるはずです。
彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。(ローマ4:20~22)
※古代日本とユダヤ人との関係に関する本コラムの内容は、あくまでも筆者の個人的な見解であり、本紙の見解を代表するものではありません。
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