「自分のすべてを否定した。死にたくなるほど、苦しかった。そして、誰も気付いてくれなかった」
「つらい、つらい、つら過ぎる。こんな状態でこれから先乗り越えられるのだろうか。心がつぶされそう」
「自分のすべてを否定して、悲しいを通り越して死にたいと思った」
これらは、京都府舞鶴市にある「聖母の小さな学校」に通う子どもたちが、時間をかけて自分を見つめる中でつづった心の思いだ。同校は教員であった梅澤良子さんが、同じく教員であった夫の秀明さんと共に、1989年に始めた不登校の子どもたちのためのフリースクール。2007年からは京都府教育委員会の「認定フリースクール」にも指定されている。定員は10人で、現在は通学する中学生5人と、中学と高校の相談生5人がいる。
同校を設立する前、「カトリック者として、また教育にたずさわる者として、日本の社会は今、私に何を求めているだろうか」と考えたという梅澤さん。その中で目に留まったのが、不登校の問題だった。
「何かの理由で学校に行けなくなり、それが深刻になると、中学や高校の3年間などすぐに時間がたってしまう。顔を見ることもなく『あの子はどこへ行ってしまったのだろう』となってしまう。人は教育によって人間になっていく。不登校になると、その教育の機会が奪われてしまう。それはカトリック者として看過できなかった」
カトリック教育をテーマにした「第55回カトリック社会問題研究所セミナー」(10月20、21日)で講演した良子さんは、来年で設立30年になる同校を始めた動機をそう説明した。
日本では現在、不登校の子どもが、義務教育の小・中学校で13万人を超え、高校では約5万人に上る。そうした状況を受け、学校復帰が前提であった従来の不登校対策が転換され、2016年には、学校外での多様な学びの場を提供することを目的とした「教育機会確保法」が成立した。聖母の小さな学校は2004年から15年にかけ、文部科学省から不登校の子どもたちに対するプログラム開発の委託を受けており、同法の成立にも多少の弾みを付けたと思っている、と梅澤さんは言う。
文部科学省だけでなく、地元の京都府教育委員会など、行政やさまざまな機関と深く関わりながら不登校対策に取り組んできた同校だが、根底にはしっかりとしたカトリックの理念が貫かれている。
日本カトリック司教団は1984年、「日本の教会の基本方針と優先課題」を発表し、その基本方針の中で次のように記している。
今日の日本の社会や文化の中には、すでに福音的な芽生えもあるが、多くの人々を弱い立場に追いやり、抑圧、差別している現実もある。私たちカトリック教会の全員が、このような「小さな人々」とともに、キリストの力でこの芽生えを育て、全ての人を大切にする社会と文化に変革する福音の担い手になる。
梅澤さんは「『小さな人々を何とかする』というのではないのです。『小さな人々とともに』に、福音的な芽生えを社会の中に育てるのです。そして社会を変革していく。これが私たちの理念です」と話す。
カトリックのフリースクールだが、宗教の時間があるわけではなく、「神様」という言葉さえ使わない。しかし、あるカトリックの学校から来た不登校の子どもが、同校に通う中でこう語ってくれたことがあった。
「先生、私、小学校の頃から『神様、神様』と、そんな話しばかり聞いていた。でも神様がいるなんて、そんなこと思ったこともない。信じてなんかいなかった。でも不登校になってここ(聖母の小さな学校)に来て、本当に神様っているんだと思った」
教えもしない「神様」という言葉が、子どもたちの口から自然と出てくる。「これが私たちの学校です」と話す梅澤さんは、自分たちが子どもたちと交わす言葉は「内から絞り出す言葉」だと表現する。「どうでいいような言葉ではありません。いつも私自身に出会っていないと、神様に出会っていないとそういう言葉は出せません」
同校の教育は「自分を見つめる」ことからスタートする。そうする中で出てくるのが、冒頭で紹介した子どもたちの言葉だ。多くの子どもたちが「自分を見つめる」という過程の中で、心の中にしまっていた「死」を考えるほどのつらい思いをつづっていく。
だが、不登校になった子どもたちがすぐに「自分を見つめる」ことができるわけではない。「子どもたちが自分を見つめることができない日々を、見つめる方向に向かって共に過ごしていく。それが教育なのです」と梅澤さんは言う。そして、自分を見つめた子どもたちは今度、「自分と出会う」という過程に進む。
「不登校の自分を見ることはつらいけど、反面、自分の本当の姿に近づいていく安心感がある」
「見るのが怖くて隠し続けていたけれど、見てみると、思ったより怖いものではなく、少し前に進めた」
不登校の自分を見つめ、そして自分と出会った子どもたちは、確実に以前よりも良くなったと話すという。そして子どもたちは「自分の課題に気付く」ことになる。さらに、その課題に向かって、仲間と共に取り組み、達成感や充実感、喜びを味わい、またそれを仲間と分かち合うという過程を繰り返すことで、だんたんと自己肯定感が生まれていく。これを梅澤さんは「自分との和解」と呼ぶ。
現実の自分を認めることができ、自分と和解した子どもたちは、やがて他者に対する信頼も育まれ(他者との和解)、行動にも変化が表れてくる。そうすると、断絶していた親との関係も改善し、さらに社会に積極的に参加していこうとする力さえ持つようになる(社会との和解)。
「不登校は、人が言うような『人生の汚点』ではない」「歩んだこの道を誇りに思う」「不登校は、神様が僕にくれたプレゼントです」
子どもたちの言葉からは、もはや不登校を後ろ向きに捉える考えは見えてこない。「不登校であった子が、不登校を生ききることによって、新しい存在へと変えられるのです」と梅澤さんは言う。
そして子どもたちはやがて、聖母の小さな学校を巣立ち、再び元の学校、社会へ戻っていく。しかしそこは、子どもたちが「死にたい」と思うまで追い詰められた場所であり、その社会自体は変わってはいない。だがそれでも子どもたちは出ていく。ここにもカトリック的な考えがあると梅澤さんは言う。
「人は、悪人にも善人にも、ありとあらゆる人に出会って人間になる。そうすることで、神の似姿へと変えられていく。不登校を経験した子どもたちは、悪魔のようなあんな学校には絶対に行きたくないと思っている。でも、悪魔がいても行くのです。それがカトリック教育です」
「30年後に今の学校の形があるだろうか」とさえ考えるという梅澤さん。最後には「この教育が多少なりとも、一般社会のカトリック的な意識への変革、福音につながればと考えて日々の教育活動を行ってます」と述べて講演を終えた。
■ 第55回カトリック社会問題研究所セミナー:(1)(2)