1968年の春のことでした。私は在学していた上智大学とフィリピンのアテネオ・デ・マニラ大学との、短期交換留学生の20人ほどのグループに加わりました。5週間の滞在の間にフィリピンのさまざまな都市や地方を訪問し、現地の人々と交流を持ち、その文化や社会を学ぶ機会を得ました。
いろいろな所を訪問していくうちに、自分が日本人であるということがどういうことなのか考えさせられました。その時分はまだ、第二次世界大戦のつめ跡が至る所に残っており、日本軍による残虐な行為がいやが応でも耳に入ってきました。
バターン半島での死の行軍とか、フォートサンチアゴの砦(とりで)の中での飢餓死とか、幾度も聞かされました。ホームステイをしていた家の子どもが日本軍の残虐な行為をしゃべろうとするのを、家の人が止めたりする場面もありました。だんだん肩身が狭くなっていきました。
滞在の最後の訪問地が、マニラにある国立フィリピン大学でした。私たち一行は学長室に招かれて、ひとときの交流を持つことができました。私はどうしても学長に聞いておきたいことがありました。それは「フィリピン人は日本人を許してくれますか」ということです。勇気を出してその質問をしてみました。
すると学長が次のように答えたのです。「私たちは許すことはできますが、忘れることはできません」。この言葉の重みを、それから今日に至るまでひしひしと感じてきました。これが真実の証言なのだろうと思います。
現在のフィリピンの若者たちはほとんど戦争のことを話題にはしませんが、たまに高齢者と親しく話をしていると、身内が日本軍に目の前で殺されたというようなことを打ち明けられる場合があります。
自分たちの父や祖父の時代のことであっても、田舎から出てきた素朴な学生たちの親から想像を絶する悲惨な話を聞くごとに、私どもは何度も申し訳ない思いを伝えてきました。そのたびに、「いや~、あれは戦争中のこと。もういいんです」という寛容な返事が返ってきました。
戦後、日本が戦争を放棄し、アジアの国々に経済的、人的支援を惜しまずしてきたことにより、対日感情は随分と改善したように思います。多くの若者が日本へのあこがれのようなものさえ持っています。しかし寛容さの中にも、心の奥底には忘れられない傷跡があることも、厳然とした事実なのです。
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