初日9月27日(木)午後のオープニングシンポジウムの後、夜はアートホテル旭川で参加者一同が集い「夕食交流会」を持った。沖縄から参加していた婦人は、9月30日の沖縄知事選の現状を熱く語った。
◆9月28日(金)
午前から午後にかけて、Aコース、Bコースに分かれて観光バスに分乗し、三浦文学ゆかりの地を巡った。ガイドしたのは、三浦綾子記念文学館の案内人の方々。このガイドにより、ゆかりの地を深く理解できた。
旭川市に近い東川町には、戦時中の1944年、中国人338人が強制連行され、極寒の地で湧水池建設工事に従事させられた。短期間に88人が寒さ、病気、拷問などで死亡した。その湧水池は現在も水温上昇施設として東川町、旭川市に及ぶ美田を潤す。その湧水池一帯は、広々とした公園として整備されていて、そこに強制連行された中国人青年の像が、故郷中国に向けて建てられている。そこからしばらく離れた墓地に中国人受難碑が建てられていた。
午後には、三浦光世・綾子夫妻の旧宅を譲り受けて誕生した旭川めぐみキリスト教会(日本福音キリスト教会連合)で、三浦夫妻ゆかりの人たちによる講演会「三浦綾子、光世を語る」が行われた。講演要旨は次の通り。
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堀田裕子(三浦綾子さんの弟・堀田秀夫さんの妻)
結婚して2年目に夫が病に倒れた。綾子お姉さんに相談すると「神様は、あなたがたに荷物を背負わせやすいのね」と言われた。子どもを4人与えられたが、夫の病気、失職で非常につらいところを通った。毎日「神様、神様」と祈り叫んだ。ある日、魂の奥底でイエス様にお会いした。そのきっかけは、子どもの頃から知っていたマタイの福音書11章28、29節の聖句だった。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます」。この聖句で、綾子お姉さんが「神様は、あなたがたに荷物を背負わせやすいのね」と言った言葉の意味が分かった。私の重荷をイエス様が担ってくださることを知った。
光世お兄さんは、いつでも敬語で接してくださった。綾子お姉さんに朝日新聞が懸賞小説を募集していることを知らせた夫については、「秀夫さんは私たちの恩人です」といつも言ってくださっていた。さらに常に「祈ってください」と言っておられたが、特に晩年には「年を取って私がどんな悪人になるかもしれないので祈ってください」と言っておられた。
私の夫はとても優しい人だったが、病気になり仕事もなく、焦りと怒りを抱え、夫婦の関係も難しい時があった。しかし私がイエス様と出会い、180度変わってから、夫の態度も変わり、夫が60歳で亡くなるまでの10年間は、本当に仲の良い夫婦となり幸せだった。
黒江勉(三浦綾子さんの日赤療養時代からの友人)
私は93歳ですが、今までに8回手術しました。1950(昭和25)年、旭川赤十字(日赤)病院に転院し療養生活していました。翌年12月に病棟で綾子さんと出会って「本当のクリスマスをしますから来てください」と誘われた。最初の印象は、怖そうなお姉さんだった。修養の目的で参加するようになり、やがてキリストを信じて洗礼を受けた。以来、綾子さん、光世さんとは長い交流を与えられた。
「その人と並んですわっていた青年がいた。廊下を歩く時、寝巻の上にいつもオーバーを着ていた。どこか前川正の顔に似て、上品の感じのする人だった。(中略)その人は黒江勉と言った。『ぼくは修養のために出ています』 彼はこの会に来るようになった理由を言った。(中略)黒江勉は、教会役員を勤めるほどの熱心な信者となった。今もまたよき伝道の業をなしつづけている」(三浦綾子著『道ありき』より)
八柳務(三浦綾子さんの秘書・八柳洋子さんの夫)
妻はもともと看護師で、三浦夫妻の秘書にという話があったとき、最初は無理だと断った。しかし妻が「秘書をやってみたい」と言ったので、「愚痴を言うな。三浦夫妻とのことを他言するな」という条件で秘書になることを許した。妻は1971年から98年まで一生懸命秘書を務めた。三浦綾子記念文学館建設当初、妻は秘書として超多忙な生活を送っていた。98年7月、三浦家の近くに検診車が来て診てもらったら、すでに手遅れの肺がんであることが分かった。年内の命と余命宣告を受けたが、年末帰宅でき、釧路、札幌と長年お世話になった方々にあいさつ回りをした。夫の私にご飯の炊き方、おかずの作り方を教え、身の回りのことをすべて整頓し、99年3月1日に召された。私は80歳過ぎた今も現役のピアノ調律師として働いている。今月、北海道新聞に記事として大きく取り上げてもらった。
込堂(こみどう)一博(旭川めぐみキリスト教会元牧師)
三浦夫妻が旧宅を寄贈してくださったこの教会で22年間牧会できた。綾子さんの思い出は、1991年4月に初めてお会いしたときのことが一番印象に残っている。「何がお好きですか」と問われたので「自然が好きです」と答えると、綾子さんは「私も自然と人間が大好きです」と答えられた。ここに三浦文学の魅力があると納得した。さらに「著名人である三浦先生ご夫妻の前でとても緊張しています」と告げると、綾子さんの眼光が鋭く光り、「著名であることはくだらないことです。そんなことで恐れないでください」と厳しく言われた。これは、恐れやすい私を変えたひと言だ。
光世さんは、いつも綾子さんに寄り添い、祈りの器であり、口述筆記で綾子さんの作家活動を支え続けた。光世さんは、毎週の教会の礼拝で説教を大学ノートに克明につけられていた。それが口述筆記に大いに役立ったといえる。三浦夫妻は、牧師や牧師夫人の働きを非常に尊重し、いつでも温かく励ましてくださった。そのことは、三浦夫妻と関わった多くの牧師や牧師夫人にとって、どんなに大きな励まし、慰めになったか分からない。
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この講演会には、途中から旭川西高校の放送部の生徒たちと担当教師が参加し、講演会終了後には、参加者たちにマイクを向けて取材していた。講演会がすべて終わった後、旭川めぐみキリスト教会の会堂上空が夕焼け空に染まった。この夜、1日目の会場であった日本基督教団旭川六条教会で、三浦綾子読書会の総会が開かれた。
◆9月29日(土)
この日、三浦綾子記念文学館の隣に、三浦夫妻の書斎を復元した分館がオープンし、多くの見学者が訪れた。午後1時から文学館内で、同館の案内人と朗読友の会「綾の会」による『道ありき』のミニシアター、読書会代表の森下辰衛(たつえい)氏が「三浦家の書斎の物語」をテーマに講演した。こうして読書会の今年の全国大会は、大いに祝福されて終了した。(終わり)
(文・込堂一博)