神学大学院基金の成り立ち
前回の学位授与で紹介した神学大学院基金(Graduate Theological Foundation、米インディアナ州)は、第2バチカン公会議(1962〜65年)に端を発する、カトリックとプロテスタントのエキュメニカルな対話から始まっています。目指すところはカトリックとプロテスタントの合同。現在ではキリスト教のみならず、イスラム教をはじめとする他宗教との共同研究も行う神学校の合同機関となっています。それに応じて、英オックスフォード大学のクライストチャーチ(英国国教会)、イタリアの一致推進センター(Centro Pro Unione、カトリック)との連携で単位取得ができるようにもなっています。
神学大学院基金は、現代社会のキリスト教界におけるエキュメニカル運動と宗教界における多元主義の先端を行っているといえるでしょう。自らはキリスト教の教育機関というアイデンティティーを保ちつつも、その上で他宗教との対話、さらには他宗教も受け入れていくという立場を取っています。
問題はこのような立場がキリスト教信仰と矛盾しないのかということです。イエス・キリストだけが真理であり、イエス・キリストを通してでなければ救われないという聖書の明確な教えは、果たしてエキュメニズムを超えて、宗教多元主義を認めることが可能かという問題です。
信仰か、学問か
「学問的」にキリスト教神学を研究するということと、キリスト教信仰を持って聖書を研究するということが、同義なのか、調和するのか、対立するのか、も問われています。一般的に「学問的」になればなるほど、特定の信仰への忠誠が揺るがされると考えられています。それは今までの歴史の中で、近代キリスト教高等教育がたどってきた道のりでも明らかです。現在この問題は「学問的自由と信仰的献身(Academic Freedom and Faith Commitment)」という対比で、大学教育の在り方として神学的に問われている問題です。多くの、特に米国の福音派の大学では、この問題に正面から取り組んでいます。学問か信仰かの二者択一に思えるような決断に直面するからです。
私も大学で初めて神学を研究したとき、キリスト教という「色眼鏡」を外して、今まで信じていたことを「客観的」に見直すべきと指導されました。「聖書にこう書いてある」と言うと、「聖書はこう書いてあるけれども、本当はこうだ」という視点を学ぶようにと言われました。
しかし、すべてを疑問視して問い直すべきということを前提として、聖書そのものも「学問的に」問い直すという立場で神学を研究しても、果たして本当に真理に到達するのかという問題も起こってきます。一般の学問、科学の領域でも色眼鏡での観察が間違った結果に行き着くことも多くあります。安藤和子先生が著作『ダーウィン・メガネをはずしてみたら』でも言われているように、それは進化論の主張の中で顕著です。クリスチャントゥデイ編集長の宮村武夫先生も言われるように、「聖書をメガネに」という視点こそが真理に到達する道ということが正しいと思えるのです。
そこで、目指すところは「信仰と学問の統合」(Integration of faith and learning)です。
それは神と聖書そのものを絶対的なものとしつつも、信じている自分自身は、クリスチャンであっても神の権威の下に置かれ、聖書によって裁かれる存在として相対化するということで可能になると考えています。それが世俗化し、多元主義になる現代社会での神の愛を実践する前提ではないでしょうか。
この具体的な実践、特に精神科のあるオリブ山病院での実践を問われる課題を、学位授与式の後のミュージカルで考えることができました。
ミュージカル「キンキーブーツ」を観て
授与式会場に隣接する劇場で、ちょうどニューヨークのブロードウェイからの出張でミュージカルの公演がありました。それは、男性が女性の姿でパフォーマンスをするドラァグクイーンの実話に基づくとされる「キンキーブーツ」というミュージカルです。そこには、今や世界的に課題となっているLGBTQ(同性愛・両性愛・性同一性障がい他)の問題があります。現代社会の流れは、性意識に関しては本人の性的指向と多様性を認めるべきという考えで、そこに解決があると主張されています。このキンキーブーツにおいても、性意識の問題を抱える男性が女装しパフォーマンスをする話の中で、人々の理解を得ていくというストーリーになっています。
そこには多様性を理解できていなかった人々が、多様性に目が開かれるべきという前提があるのです。多様性を認めることこそが正しいという現代文化の前提です。しかし聖書には、神は明確に人を男と女に造ったと記されており、同性愛や男性の女装も明確に禁じられています。しかし同時に、人が聖書の言葉をもって他人を裁くことはできないと教えています。
それではクリスチャンはどう対応したらよいのでしょうか。具体的にオリブ山病院では、この問題を医療と信仰の面から取り組もうとしています。一般的には、本人の性的指向を認め、診断の上で性転換もするというのが、現代の医療の方向となっています。しかし、本人が自己申告する性的指向を認めても、本人の人生には最終的な解決がないということは分かっています。一時的には満足したり、社会的な理解が深まったりということがあっても、本人の身体的問題や内面的問題が解決されず、後悔にさいなまれたり、結局自殺に至ったり、再度の性転換を求める場合もあるのです。
そこでオリブ山病院では、裁いたり排除したりするのではなく、受け入れて寄り添って支えていくというアプローチを目指しています。性意識の問題を抱える多くの方々をケアしてきた専門家メルビン・ワン氏をはじめとして、当事者の話を聞き、全人的ケアの具体的な理解を深めてきました。
オリブ山病院の全人医療の実践においては、ますます進んでいく世俗化と宗教多元主義には解決はないという客観的な事実と、聖書の真理に照らし合わせて、何が本来の人のあるべき姿かということと、聖書をもって人を裁くのではなく、自分自身も同じ罪人として「本当に人を愛しているか」を問いつつ、神の愛をもって全人的な癒やしを目指していく思いを新たにしました。
サウスベンド出発、シカゴ経由で日本へ
すべての予定が終わり、ホッとしてサウスベンドから出発の時が来ました。着いた時にはゆっくり見回す余裕もなかったサウスベンド空港ですが、出発前に眺めると味のある空港でした。最初に目に留まったのが、米国の旅の手段を決定的に変えたといわれるプロペラ旅客機「ダグラスDCー3」の頭部です。それまでの鉄道中心から航空機中心の旅となりました。現代社会の変化の速さのさきがけのように思えました。
サウスベンドからはシカゴを経由し、東京・羽田で乗り換えて沖縄に帰ってきました。この旅路は、教え、学び、評価されるという三拍子がそろったもので、振り返ってみると全人医療が一貫したテーマでした。これからの世界における日本の役割、キリスト教医療の役割、そして私自身のキリスト教信仰についてもう一度問われた上で、確信を与えられた旅となりました。まさに還暦、1回回って再び踏み出す新しい歩みの出発となりました。
世界は本だ。旅をしない人は、本を1ページしか読まない人のようだ。 ――アウグスティヌス
The world is a book. And those who do not travel read only a page. — St Augustine
地球を一回りすると
さて、本コラムの第1回で予告した、8泊10日で地球を一周するとどうなるか、人体実験の結果です。何と曜日と日付の感覚がまったく混乱。国際電話をしたとき、これまででしたら、すぐに頭の中で計算して、日本の相手の時間が理解できました。しかし一周すると、時差がだんだんと変わってくるので、米国では日本との時差がもう感覚的には分からなくなってしまっていました。自分がいる場所の曜日さえ分からなくなり、予測した相手の曜日がずれてしまっていました。
疲れは沖縄到着まであまり感じず、到着して翌日から仕事を始めても体力的には大きな問題を感じませんでした。しかし1カ月間は体が痛く、それまで朝晩欠かさずにしていた筋トレをしばらく休み、1カ月ほどたってからやっと始めているレベルです。しかし何よりも、神様の恵みがあふれた、感謝に堪えない旅でした。(終わり)
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