浦上天主堂を見学させていただいたとき、その壮大な聖堂の横に隣接している比較的小さなチャペルの壁に、約8500人の名前が銅版に刻まれていました。それは、原爆によって命を落とした浦上天主堂の信徒や司祭たちの名前でありました。
なにげなくそれらの名前を見ていましたら、1人の人が「あっ!」と声を上げました。永井隆博士(1908~51)の名前をそこに見つけたのでした。見ると、そこには緑夫人の名前が並んで刻まれていました。永井博士夫妻は浦上の信徒であって、この天主堂で礼拝をささげていたのだという認識を新たにしたのでした。
永井隆博士は1908(明治41)年、島根県松江市に生まれました。長崎医科大(現・長崎大学医学部)を卒業後、放射線医学の治療と研究に従事、当時最も深刻な病気だった結核治療に励んだこともあって、放射線で被ばくして慢性骨髄性白血病にかかりました。「余命3年」と宣告されたのは、被爆の2カ月前でありました。その時37歳でした。
原爆投下の日、大学病院で被爆したものの、命は助かりました。永井博士は、被爆直後の様子を「地獄だ、地獄だ。うめき声一つ立てるものもなく、まったくの死後の世界である」(『長崎の鐘』)と表現しています。こういうわけで、博士は二重被ばくをしていたのです。
妻の緑さんを原爆で亡くし、疎開していた2人の子どもたちと共に、浦上の信徒たちが建ててくれた畳2畳の小家を如己堂と名付けて暮らすこととなりました。「己の如く汝の隣人を愛せよ」という聖書の御言葉から名前を付けたのでした。そこで親子3人が3年余りを過ごしました。その間に16冊もの書物を世に著し、平和を説いたのでした。
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