1946(昭和21)年6月末、ラジオのニュースは、日米混血児第1号が生まれたことを報じた。
「これは、太平洋の両岸を結ぶ愛のしるしであり、日米が最初に交わす握手そのものです」。アナウンサーは、このように告げた。しかし、日本国民は複雑な思いでこれを聞いていた。そして、間もなくそのアナウンサーが免職になったといううわさが流れた。
その頃国内では、若い日本女性が米兵に乱暴されるとか、誘惑されて米軍キャンプに送られる――というような事件が続いて起きており、国民は憤りを抑え切れずにいたのである。このニュースは何やら不吉な予感を感じさせるものがあったが、間もなくそれが現実となった。
その日、美喜が鵠沼(くげぬま)近くを通りかかると、川の中に縮れ髪の黒い赤ん坊が浮いているのが目に入った。思わず彼女は悲鳴をかみ殺した。
「進駐軍の兵隊に乱暴された日本人の女が、ここで赤ん坊を産み落としたそうだよ」。川の縁に立っていた人が言った。ぼろくずのように捨てられた小さな赤ん坊の姿が、だんだん涙でぼやけていった。
それから幾日もたたないうちに、今度は歌舞伎座の裏通りで人だかりがしている。のぞいてみると、青い目を半ば開いた白い肌の赤ん坊の死体が転がっているのだった。
「米兵の子じゃないかよ」。1人の男が、それを足で蹴飛ばして言った。「始末に困ってこんな所に捨てやがって」。その青い目は悲しげに、じっと美喜を見ていた。彼女は心の中で手を合わせ、逃げるようにその場を去った。
それから間もなく、横浜の田中橋のたもとで仕事をしていた人夫が、こもに包んだ赤ん坊の死体を川から引き上げた。見るつもりはなかったが目を上げると、どぶ泥に漬かったこもの中から醜くふやけた混血児の赤ん坊の死体が恨めしそうに目を向いていた。丸裸で、手足にひどい傷跡があった。
美喜はやり切れない思いで町をさまよった。なぜかその目に、あのドクター・バナードス・ホームの森の神々しい夕映えが映ったように思えた。
それから4カ月ほどたったある日。美喜が夫廉三の郷里である鳥取に向かう途中の出来事だった。混んだ列車にすし詰めにされ、彼女は押されて網棚の下まで流されていった。岐阜の関ケ原に差し掛かるカーブの所に来たとき、列車は大きく揺れて網棚の荷物が彼女の手元に落ちてきた。
細長いふろしき包みだった。それを再び柵に押し上げようとしたとき、警官が2人車内に入ってきた。その1人がこれを見ると、つかつかと近づいて来て言った。
「包みを開けろ」「これ、私の荷物じゃありません。棚から落ちてきたんです」「いいから開けろ。中を見せてもらおう」
ふろしき包みをほどくと、何と中から混血児の赤ん坊の死体が新聞にくるまれて出てきたではないか。
「おまえが殺して捨てたんだろう」。警察はぎょろりと目を向いた。そして、すぐに彼女を逮捕しようとしたが、その時、乗客の1人が、名古屋で降りた女性がこの荷物を持っていた――と証言してくれたので、彼女の嫌疑は晴れたのだった。その時、彼女の心に神の声が響いてきた。
(もしあなたが、たとえいっときでもこの子の母とされたのなら、なぜ日本中のこうした子どものために、その母となってやれないのか)
「そうでした、神様。あなたはこの私の使命が何であるかを示すために、この悲惨な現実を見せてくださったのですね」。美喜は涙にむせびながら、そうつぶやいた。
旅を終えて家に帰った美喜は、3日間真剣に祈り続けた。そして、今まで心に抱き続けた理想が、今ここにようやく1つの形をとって示されたことを感じた。
美喜は夫廉三のもとに行き、手をついて言った。「神様が私に不幸な混血児を救う任務を与えられました。これは決して途中で投げ出すことは許されないものです。そして、当然自分の生活を犠牲にしなくてはなりません。いずれ、仕事か家庭かどちらかを選ばなくてはならない時が来ましょう。どうか私を今、家庭から解放してくださいませ」。そして、彼女は泣き崩れた。
「おまえのいいようにおし」。廉三は、両手を彼女の肩にかけて言った。「本当に、長いことよくやってくれた。それがおまえの心に抱き続けてきた理想であるならば、いかにでもして実現するがいい。神様はお守りくださるだろう」
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<あとがき>
いつの時代にも、大人の身勝手さや罪のために犠牲になるのは幼い子どもたちです。敗戦国日本の社会の中で、日本人女性が米兵に乱暴されたり、売春をしたりした挙句にできた子ども――黒い肌の子、白い肌の子――はいずれも国民の憎悪の対象となり、虐待を受けたり、殺されたりして、そのむごたらしい死体が町中の至る所に転がっていたといわれています。
このような子どもたちの姿を目にした美喜は、どんなにショックを受けたでしょう。そしてある日、ついに彼女は最悪の場面に遭遇します。夫廉三の郷里に向かう途中の列車の中で新聞紙に包まれた赤子の死体が網棚から落ちて来たのです。
彼女は赤子殺しの嫌疑をかけられますが、幸い見ていた人の証言で無実が証明されます。その時、彼女ははっきりと神の声を聞いたのです。これら不幸な混血児の母となれ――という言葉を。時として人は、最悪の生活状態、出口のない行き詰まりの中で召命を受けることがあります。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。派遣や請負で働きながら執筆活動を始める。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。動物愛護を主眼とする童話も手がけ、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で、日本動物児童文学奨励賞を受賞する。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝の連載を始める。編集協力として、荘明義著『わが人生と味の道』(2015年4月、イーグレープ)がある。