<本文と拓本>31文字(517+31=548)
望風律以馳難險(風律を望みて難險を馳せ)、貞觀九祀(貞観九年)、至於長安(長安に至る)。帝使宰臣房公玄齢惣仗西郊(帝は宰臣房の公玄齢をして仗を西郊に惣べさせ)、賓迎入内(賓を迎え内に入らし)。翻經書殿(経を書殿で翻じては)
<現代訳>
良き時期に困難にも耐え、貞観9(635)年、長安(西安)に参りました。皇帝は総理大臣の房玄齢によって儀仗兵を西郊に出して賓客を迎え、宮に歓迎しました。図書館では経典を翻訳させ
<解説>
房玄齢(587~648)は、太宗皇帝の側近として玄武門の変において太宗の権力奪取を助けた貞観の治の立役者の1人。中国伝記書の『旧唐書』巻66列伝第16「房玄齢伝」、『新唐書』巻96列伝第21「房玄齢伝」があるが、宣教師を歓迎したことの記事はない。
「経を翻訳させ」とあるのは、聖書類や神学書と歴史書、医学書、科学書などを皇帝に伝えるために翻訳に取り組んだ意味。初期の翻訳書としては現代にも残されている『一神論』、『序聴迷詩所経』(イエス・メシア経)があり、長安城内の図書館で、シリア語から漢語へと翻訳したと考えられるが、慣れていないために十分な訳書とはならなかった。
貞観の治とは、唐代が政治的に安定した時代で、外国からも多く来唐し、さまざまな交流があった。日本からも遣唐使があったことは有名なことである。
※ 参考文献
『景教—東回りの古代キリスト教・景教とその波及—』(改訂新装版、イーグレープ、2014年)
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