青来有一さんは、1958年長崎生まれ。長崎市役所に勤務する傍ら小説を書き始め、1995年に『ジェロニモの十字架』で文学界新人賞受賞、2001年に『聖水』で芥川賞を受賞、さらに2007年に『爆心』で伊藤整文学賞、谷崎潤一郎賞を受賞した。
その作品ではいつも長崎を描き続けている。『ジェロニモの十字架』は、土の中から発見された十字架と隠れキリシタンの家の記憶を巡る物語。『聖水』は、「聖水」を軸に長崎で織り成す人間模様が描かれる。そして『爆心』は、8月9日の原爆記念日の日を軸に、老夫婦、知的障がいの男性、若い店員を誘惑する人妻など、浦上に生きる人々の日常が描かれる短編集だ。
2010年からは、長崎原爆資料館館長の重職も務めながら精力的に作品を発表し続けている。長崎に生まれ、長崎に生き、キリシタンや原爆など、長崎をテーマに描き続ける青来さんに話を聞いた。
長崎で小説を書くということ
――今日は、長崎にあって長崎を書き続けるというテーマでお話を伺いたいと思います。青来さんは以前ある対談で「長崎で文学を書くときは、キリシタン・原爆・出島の3つに縛られる」とおっしゃっていたのが印象に残っています。
長崎のイメージは、世間一般からいうと浦上の遠藤周作の『沈黙』で知られるような潜伏キリシタンの殉教のイメージ、原子爆弾によって破壊された都市のイメージ、それと出島、つまり歴史的に海外との窓口というイメージの3つの要素があって、小説もそのイメージを下敷きにして書かれることが多いと思います。吉村昭さんは『ふぉん・しいほるとの娘』など歴史ものをたくさんお書きになられています。遠藤周作さんの場合、潜伏キリシタン殉教の歴史が背景です。林京子さんはご自身が被爆の経験があり、原爆をテーマに書き続けてこられました。長与善郎(1888~1961)の映画化もされた『青銅の基督』という面白い小説があり、鋳物師があまりにうまく踏絵のキリスト像を作ったためにキリシタンではないかと疑われるという話です。
長崎を舞台にして新しく小説を書くときに、3つのイメージをどう扱うかということをずっと考えてきました。でも、自分が書きたいのは出島のような歴史ものではありませんでした。心にひっかかるのは「残虐なことが起きた土地」というイメージで、それを書きたいと思いました。そこから潜伏キリシタン殉教の歴史と原子爆弾による被爆経験という2つの中心が出てきて、2つの中心の周りを楕円のように巡りながら書いてきました。デビュー作の『ジェロニモの十字架』はそうでしたし、芥川賞を頂いた『聖水』も、谷崎賞、伊藤整文学賞の『爆心』もそうでした。
――私も15年前、長崎に住んでいたんですが、長崎は住んでみないと分からない独特の土地ですよね。青来さんは長崎生まれで長崎育ち、長崎を出ようとは思わなかったんですか?
私は不思議となかったんですね。上昇志向がないというか(笑)。高校生の頃、宮沢賢治を知り、大きな影響を受けました。賢治は農芸化学者であり、教員であり、詩人でした。何となくそれに憧れて、大学は中学校の理科教師の養成課程に進学しました。教員免許も持っていますが、教員には何となく向いていないのが分かりました。教員採用試験も不合格だったこともあり、長崎だと離島に行かなければいけないことなどがあってあまり熱心にはなれなくて、教員にはなりませんでした。
――でも離島こそ宮沢賢治的な雰囲気が残っているのでは?
父も県庁の職員でしたし、五島にも住んだことがありましたから、離島に抵抗感があったのではなく、やはり殉教と被爆のイメージが重なる浦上という土地の磁力に何となく引き寄せられていたのかとも思います。現在も浦上に住んでいますから。2001年に遠藤周作文学館が外海(そとめ)地区に開館して、外海・浦上という殉教と被爆の2つの中心がはっきりしてきた感じがします。時々、遠藤周作文学館を訪ねるんです。ちょうどドライブには最高で、沿岸を車で1時間ぐらいの距離です。とても刺激的な場所です。遠藤周作文学館では企画展やイベントなども行われていて、遠藤ファンや『沈黙』が好きな方にとっては、一度は訪ねたい場所ではないかと思います。私も若松英輔さんと遠藤周作の文学をテーマに対談をしたことがあります。
――私も昔長崎に住んでいたとき、よく車で行きました。外海の道は日本で一番西の果ての道で、日本で一番夕日がきれいなところですよね。若松さんは岩波ブックレットで『内村鑑三をよむ』という本も書かれていますね。
若松さんは、死者をめぐっての記憶を大切にされている方だと思います。宗教的な「霊性」と「知性」のつながり方が新鮮だなと感じます。私は20代の頃、吉本隆明の『共同幻想論』を読んで、死は1つの共同幻想だという考えのまま、そこでずっと止まっていたように思います。死について、それ以上のことは何も考えませんでした。だから若松さんが死者を単なる幻想ではなく、かけがえのない実在として捉えていたのは、衝撃でしたね。
――吉本隆明という人は、大きなインパクトを与えた人なんですね。私の世代にはピンとこないんですが。
だと思います。私も読んだのは遅くて、80年代に文庫本が書店に大量に並んだとき、『共同幻想論』を読みました。
――青来さんは小説の中で、「原爆資料館は膨大な死に囲まれている。地下にも公表されていない亡くなった方の写真がある」と書かれていますね。若松英輔さんの影響以外でも、「死が幻想ではなく、存在である」と思われるようになったのは、原爆資料館の館長としてのお仕事にも関係しているのでしょうか。
そうですね。でも子どもの頃から、この土地はたくさんの方が亡くなった場所だということは毎日聞いて育ちましたからね。「原爆のあと、この浦上川にたくさん死体が浮いていた」と話す人も周りにいました。子どもの頃、その川で遊んでいました。そこが生活の場でもあったのです。
普段は何も考えないのですが、ある瞬間、ふっと死体がいっぱい倒れていたという話を思い出して、急に怖くなることが子どもの頃にはありました。小学校(城山小学校)で放課後、被爆校舎で1人ドッジボールで遊んでいて、急に怖くなって逃げ出したことを今でも覚えています。
吉本隆明を読むような年齢になれば、死を恐れるのはナンセンスだなと思うようになりました。若松さんの死者が存在するといった語り方は、全く違う次元でおっしゃっている気がします。死が終わりだと考えると、現実が「痩せてくる」ような気がします。むしろ死者が存在すると考えるほうが、豊かになるのではないかとは思います。正直、分からないところも多いのですが、若松さんの著作は興味深く読ませていただいています。
――青来さんも小説の中のある瞬間に訪れる原爆の「怖さ」あるいは「記憶」を描かれていますよね。
そうですね。別の言い方をするなら、ある瞬間に「個人が広がる、別のものにつながる」瞬間があると思うんです。『人間のしわざ』では、世界の同時代に向かって広がっていく一瞬があるし、それを書きたいと思っていました。「死ねば終わり」ではないと考えたら、過去や現在、未来とかもっと世界が広がらないかなあと考えています。
少年時代からすぐ身近にあったキリスト教
――少年時代からずっと長崎で育ってこられたんですよね。
これまでだいたい爆心地から3キロ圏内で育ち、生活してきました。生まれたのは市内の南山手、グラバー園の近くです。その後、家族の転勤で、五島列島で幼稚園時代の3年を過ごして、小学校の入学と同時に原爆爆心地に近い城山小学校に入学しました。浦上と呼ばれる地域ですね。その後、中学、高校も、大学も爆心地の近くであり、浦上地区にありました。浦上はカトリックの信徒の方が多く、城山小学校の頃、同級生が洗礼名を持っていて、何だろうと興味をかきたてられたこともありました。カトリックの人たちは“すぐ傍らにいる人たち”のイメージで、それほど違和感はなかったんですよね。
原爆の記憶
ーー城山小学校(旧城山国民学校)は原子爆弾により校舎が破壊・焼失。被爆当時いた職員158人中138人が死亡。校長以下の教職員31人と、全校生徒の約8割に当たる児童約1400人が学校や家庭で爆死したと推定されている場所ですよね。
城山小学校では、原爆の話はよく聞きました。私が入学したのは、被爆から20年目の1965年ですが、もう被爆地の痕跡はあまり残ってはいませんでした。今の爆心地一帯の風景とほとんど変わりません。ただ原子爆弾を経験している人は今よりもずっと多かったので、お年寄りの方から昔話のように「あの川には死んだ人がたくさん浮いていた」というような話はよく聞いていましたね。
――ご実家はキリスト教徒ではなかったんですよね。
実家は仏教だったんですが、祖父母の世代が島原半島の出身で、母方の祖母は島原の乱のあった原城のすぐそばで育ったということでした。私が高校2年生の頃、祖母が「島原の畑を掘っていたら、金の十字架が出てきた」と話し始めて、今、その金の十字架はどこにあるのかと家族で騒ぎになって、結局、夢だったということで、笑い話で終わりました(笑)。ただ、私は、キリスト教の家でもないのに、祖母の夢の中に金の十字架が出てくることを不思議に思いました。
長崎市役所に就職して、30代の頃、文化財課という部署に配属され、埋蔵文化財に関わる業務を担当しました。当時、発掘現場に足を運んでいたのですが、長崎という地名の由来である長い岬だったところで、現在、長崎県庁の建物がある付近を発掘すると、江戸時代初期の古い家の軒丸(のきまる)に十字架が刻まれた「花十字紋瓦」と呼ばれる瓦の破片がざくざく出てくるのですね。禁教時代の前、その辺りはローマ・カトリック教会に寄進されていた土地なのです。瓦の軒丸に十字架の印がある家がたくさん並んでいたのですね。祖母が夢で見たように、長崎の土地には十字架が埋まっているのです。そんな経験がデビュー作『ジェロニモの十字架』にもつながっていきました。
そんな経験があって「私たちは、実は多くの神を捨ててきたのではないか。私たちは意識していないけれど、神を捨ててきた悲しみがあるのではないか」ということを考えてきました。小説を書くときのイメージとしてそれがずっとありました。だから、宗教や信仰としてではなく、日本人と神様の関係がどのようなものかということで小説を書いてきたんだと思います。
宗教に基本的にはのめり込むことはなく、どこかで覚めているんですが、全否定したり、自分から関係がない世界として全く切り離すことはできません。