「ゴスペルブームは、日本では間もなく終わる」という言われ方をよく聞く。しかしそんな言葉を耳にしながら20数年がたつが、いまだに「ゴスペル」は下火にならない。定期的に新たなゴスペルフリークを生み出し、むしろ各地でその規模や教室数は増えている感すらある。
同じく、20数年前からずっと耳にしてきたフレーズがある。「あの映画を見てゴスペルに興味を持ちました!」。「あの映画」とは、「天使にラブ・ソングを…(Sister Act)」シリーズのことである。1992年(日本では93年)に第1作。翌93年(日本では94年)に第2作が作られている(以下「天ラブ」と表記)。
よく考えてみると、「終わる」予言をするのは、いつもキリスト教会の牧師だった。でも終わらない。なぜか?このシリーズ映画が常に新規ファンを開拓し続けているからである。それくらい「天ラブ」は日本のゴスペル界、ひいてはキリスト教界にものすごいインパクトを残していることになる。それはもう、「十戒」や「ベン・ハー」に勝るとも劣らない衝撃である。
しかも面白いのは、あれから20年たっても多くの若者からお年寄りまで、皆この映画に魅了され、しかも自分もゴスペルをやってみよう!と思わせていることである。そういった意味では、日本のキリスト教会はこの映画に最敬礼すべきなのかもしれない。
日本でだけ愛され続ける「天使にラブ・ソングを2」
この日本での「天ラブ」現象をもう少し詳しく調べると、2つの点でさらに興味深いことが判明する。
1つ目は、ほとんどの場合、ゴスペルを始めるきっかけとなったのは「天ラブ2」を見てからであること。「天ラブ1」はその後に見るか、先に見ていても2を見た後にもう一度見直すという意味で、1に帰っていくパターンが多い。
2つ目は、作品として2の方が質的興行的に優れていたのか?というと全くそうではないという現実がある。証拠を示そう。まずは分かりやすく、各作品の興行収入から。
- 天ラブ1 1億4000万ドル(米国) 世界収入は2億3000万ドル
- 天ラブ2 5700万ドル(米国) 世界収入は未発表(少ないということ)
作品の評価も1のほうがずっと高い。映画の評価サイト「Rotten Tomatoes」で両作品の評価を見てみたのが以下のもの。
- 天ラブ1 71%の満足度(これはかなり高い)
- 天ラブ2 7%の満足度(これはほとんどダメ出し状態)
実は「天ラブ」は、本国のみならず世界的に見ても、1は傑作だが2はほとんどコケにされる作品なのだ。しかし、日本では2がいまだに絶大な人気を誇っている。「天ラブ2」をこれほどまでに愛しているのは、日本だけである。
ここから見えてくるのは、日本人はこのシリーズを映画的な優劣ではなく別の視点で見ているということだ。そしてそれは、日本のゴスペル事情と大きくつながっているのではないか、と筆者は思っている。
まずは、物語の中身を追いながら1と2の違いを見ていこう。
(1の物語)
マフィアのボスの殺人現場を目撃してしまったラスベガスのショーガール、ドロリス(W・ゴールドバーグ)は、一目散に逃げ去り警察に保護を求めた結果、修道女に化けさせられ修道院に送られる。しかし、修道院の聖歌隊があまりにも下手であることにびっくりした主人公は、聖歌隊の指導を始めることに。聖歌隊は各地で喝采を浴びるようになり、街の有名メディアにも取り上げられるようになる。その姿を発見したマフィアのボスは、彼女を殺そうと画策し始める・・・。
(2の物語)
事件後、またショーガールとして活躍していたドロリスのところに修道院長が訪れ、カトリック系の高校に赴任して聖歌隊を指揮することで学校を立て直してほしい、と要請する。しぶしぶこれを受けたドロリスは、高校の音楽教師として赴任する。そこで出会った若者たちと共にクワイアを結成し、高校のゴスペルコンテストを目指すことになる。しかし一筋縄ではいかない学生たちに、教師ドロリスにはてこずるのであった・・・。
「コメディー映画」としては、1のストーリーには面白味がある。ラスベガスのショーガールと修道院の聖歌隊というギャップや、聖歌隊が伝統的な賛美歌を、歌詞を変えてポップにアレンジするところなど、「映画的要素」に満ちているといえよう。マフィアのボスが殺しにやって来るところでサスペンス色もある。
一方、2はよくみられる学園ドラマの焼き直し感が否めない。音楽を通じて、一見不良じみていた子どもたちが心を1つにし、偉業を成し遂げるという物語は、米国でも日本でも多い。唯一1に勝っているとしたら、トラディショナルなゴスペルソングを取り入れているところか。「ああ、この歌知ってる」と観客に思わせるのは確かに2の方だろう。
「私の物語」「あんな風に歌いたい!」と日本人に思わせた「天ラブ2」
では、どうして2が日本人にウケたのだろうか? 幾つか理由があると思われる。1つは、物語がいい意味で予定調和的であったため、人々の意識をゴスペルの楽曲に引き付けることができたということ。物語の冒頭から「最後はみんな心合せてゴスペルを歌うのだな」ということが分かり、安心して見ていられるため、意識を音楽に向けることができる。
2つ目は、2の物語のテーマが日本人になじみやすい「成長物語」であるため、登場人物に感情移入しやすく、未熟な学生たちがゴスペルを通して成長していく様に自分たちを重ねやすくなっていること。「Oh Happy Day」を歌う内気な少年のように、私たちのそばにどこにでもいそうな存在が、この歌をきっかけに成長していく物語に「きっと自分も・・・」と思いやすくなる。親しみが持てる。
3つ目は、2の物語とテーマがあまりお決まりの「キリスト教」色を出していないことだろう。よくある学園ドラマ、と思わせておくことで、すんなりと物語に入り込ませることができている。しかしよく注意してみると、この物語はまさにキリスト教の「福音(Gospel)」の本質を逆にストレートに提示していることが分かる。教理・教義を前提とする「福音」ではなく、実感として体験できる「福音」の本質を見事に提示している。
悩みや苦しみを持った人が生きている。そこに歌を通して希望が届けられる。その本質に触れた者たちが、困難を乗り越えるために歌い出し、最後はハッピーエンド。これこそ、キリスト教が伝えようとする「福音」の本質である。悩み傷ついている人々が一体となって歌うことで感じられるダイナミズムがそこにある。
さらに歌詞やサウンドなどに興味を持った人々が集まり、劇中のローリン・ヒルのように自然発生的にいつの間にか歌が始まっていく。そんな歌として持つゴスペルの雰囲気が、日本人には「いいもの」と映るのだろう。
米国はキリスト教を土台とする国家であるが故に、2の展開があまりにも当たり前すぎて、新たな発見や刺激が得られなかったのだろう。ここにキリスト教国の限界がある。
一方、日本は全く逆である。1は確かに面白いが、2は映画という範疇(はんちゅう)を越え、自分たちが「触れることのできる」物語だったのだ。コメディーというより、むしろ「私の物語」となっていった。
面白いのは、日本人がそこですぐに教会に行かなかったことだ。代わりに日本人はどうしたか? ゴスペルという「雰囲気」を求め始めたのである。「2のように歌い始めたらどうだろう?」「仲間がいたら歌えるのに」「あの歌を歌ったらきっと気持ちいいだろう」――そんな思いは、ゴスペルを生み出した源流である教会に向かず、楽曲やクワイアで歌うというスタイルに向かったのである。
そして、各地でゴスペルがブームとなっていった。NHKもゴスペルクラスを開始したほか、地元の公民館で高齢者向けに「健康のためにゴスペルを」と言われるようになっていったのである。
これはキリスト教後進国ならではの反応であると筆者は考える。キリスト教国の場合、あまりにもゴスペルやキリスト教と自分たちとの距離が近すぎて「当たり前」感が強く、ここまでの新鮮な感動を得ることができない。そういった意味で、2がウケているというこの(世界的に見て)奇妙な現象は、日本特有のものであると言ってもいい。そして、そこにこそキリスト教界は目を留めるべきである。(続きはこちら>>)
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