オバマ米大統領の広島でのスピーチを、宗教哲学の研究者はどう聞いたのか。南山大学の佐藤啓介准教授に話を聞いた。
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―オバマ大統領のスピーチを聞いていて、歴史的な演説として感動すると同時に、なにかもやもやした感情が残りました。カトリックの南山大学で宗教哲学の研究者として「死者の記憶」という概念に注目して論考を重ねてこられた佐藤先生は、それをどう聞いたのか伺えたらと思います。率直に、どうお聞きになりましたか。
国際政治上の配慮をしている部分も、もちろん評価すべきだと思うのですが、私自身が宗教哲学研究者としてむしろ大事だと思ったのは、「できる限り死んだ人一人一人をきちんと取り上げ、見よう」。ただたくさんの人が死んだのではなく“死者を集合化しない”という意思を感じたことです。そして「死んだ人に呼ばれてきたのです」と語り始めた。それがとても大事だと思いました。
「なぜ私たちはここ、広島を訪れるのか。私たちはそう遠くない過去に解き放たれた恐ろしい力に思いをはせるために訪れるのです。10万人を超す日本人の男女そして子どもたち、何千人もの朝鮮人、十数人の米国人捕虜を含む死者を悼むために訪れるのです。彼らの魂が私たちに語り掛けます。私たちに内省し、私たちが何者なのか、これからどのような存在になり得るのかをよく考えるように求めているのです」
「彼らの魂が私たちに語り掛けます(Their souls speak to us.)」と語っていますね。そしてその魂(soul)を、男性、女性、子ども、と語ることで「死の個別性」をできる限り見つめ、大事にしている姿勢を評価したいと思いました。
「数年の間で6千万人もの人たちが亡くなりました。男性、女性、子ども、私たちと何ら変わりのない人たちが、撃たれ、殴られ、連行させられ、爆撃され、投獄され、飢えやガス室で死んだのです」
少し脱線しますが、3・11の後、ビートたけしさんがテレビで「“震災で1万人が死んだ”ではなく”1人の死が1万回出来事として起こった“、そう見ないとだめだ」という趣旨の発言をしていました。オバマ氏がやろうとしたのもまさにそれだったのではないでしょうか。死者に向き合う姿勢としては、注目すべきところだと思います。
そして「単なる言葉だけでは、こうした苦しみに声を与えることはできません」という部分は、とても慎重な表現をしていますし、さまざまな配慮を感じます。
「私たちは、声なき叫びに耳を傾けます。私たちは、あの恐ろしい戦争で、それ以前に起きた戦争で、それ以後に起きた戦争で殺された全ての罪なき人々を思い起こします。単なる言葉だけでは、こうした苦しみに声を与えることはできません」
「いつか、証言するヒバクシャ(被爆者)の声が聴けなくなる日が来るでしょう」
―なるほど。深く分析したことはなかったのですが、スピーチを聞いたときの言い回しの節々から感じた感動の源泉は、そこからくるものなのかもしれないですね。
しかし、それが後半になるにつれて、徐々に「死者たちは私たちと同じ」というレトリックで繰り返すようになっている。例えばここですね。
「なぜなら、彼は、彼らの喪失は自分たちの喪失と等しいと信じていたからです」
「71年前、同じ大切な時間がここにあったということを知ることができるのです。亡くなった人たちは、私たちと変わらないのです」
このように「亡くなった人たちは、私たちと変わらないのです」という表現が目に付く。そしてだんだん主語が全部「人類」になっていきます。そうなると、死んだ人も生きた人も「同じ人類」となっていく。最初あれほど「死者たちの声に呼ばれて」と言っていながら、いつの間にか「死者たちの声」から「私たちの声」にすり替わっています。
翌日にメディアでなされたスピーチの分析の中で、もっと日本人は「情念」や「恨み」を訴えてもいいのではないかと書いた方がいましたが、私もそれに賛成です。「死んだ人たちが語り掛けている」と言うなら、その声を勝手に決めつけてはいけない。しかも米国の物語に当てはめながら「死者たち」と言うことについては、ちょっと立ち止まって考えるべきではないかと思います。
それは「死者たちに最後に残された権利をはく奪する」ことなのだと思います。当たり前なのですが、僕たちは死んだ人のことは分からないし、何を考えているのか、そもそも考えているのかどうかも分からない。それなのに死者たちを代弁するや否や、もう死者はいなくてもよくなる。そして生者が死者を道具として使ってしまうことになるのではないかと思うのです。
これはまさに、オバマ氏がスピーチを読んだ場所を考えると象徴的ですが、平和記念公園の石碑に刻まれた「どうか安らかにお眠りください 過ちは繰り返しませんから」という有名な言葉があります。これについては、果たして過ちの「主語」は誰なのか、という歴史的な論争がありました。
その後70年に当時の広島市長が「これは人類全体が主語なのです」と語ることで、論争に決着をつけました。オバマ氏が「人類」を主語としたことは、その論争を彷彿(ほうふつ)とさせます。ただし、石碑の主語はあくまで一貫して生きている側なのに対し、オバマスピーチの主語は、死者から、生きている人類へと入れ替わっている。オバマ氏がここで「人類」という言葉を使うほど、そこに眠っている死者たちは、生きている人に都合のいい存在になってしまう、と私は最初に聞いたとき感じました。特にこの部分です。
71years ago.Those who died, they are like us. Ordinary people understand this, I think. They do not want more war.
「71年前、あのように亡くなった人々は私たちと変わらないのです。普通の人たちは、このことを分かっていると思います。普通の人はもう戦争を望んでいません。
「71年前、亡くなった人たちは、私たちと変わらないのです」と語って、それを受けて主語が「私たち(ordinary people)」という人類全体にスライドしている。いつの間にか「亡くなった人たち」が消えてしまっているのです。
―大変よく分かります。でも、スピーチとしては、最終的には歴史的な教訓に落とし込み、未来を語らざるを得ないのではないかとも思えるわけで、ある意味やむを得ないと思います。それを何の立場に立って批判すべきなのでしょうか。
おそらく教訓に落とし込まざるを得ない。でもその時に「もう二度とたくさんの人を殺さない」という教訓で十分なのではないでしょうか。それを「たくさんの死んだ人も平和を望んでいる」という一歩進んだものが入っている。
もしかしたら、彼ら(死者)は恨み続けているかもしれない。許していないかもしれない。そのような恨みや私たちの罪や悪、いわば「死者の暗い記憶」を抱え続けることが大事なのではないでしょうか。
ある意味では、“亡くなった方は何を考えているか分からないし、ここにたくさん眠っている”という、もやもやしたものを残したままの談話だって作れると思うのです。
―でも、それは政治家が果たしてやることなのでしょうか。
そこが一番難しいところだと思います。これは、とても練られたスピーチです。責任は絶対に認めないような仕方でやらざるを得ない。「私たちが殺した」という表現は避けなければいけないし、死者をクローズアップしすぎれば、即責任につながる。だから、“殺した”ではなく“死んだ”“亡くなった”としか書けなかったというニュアンスはあると思います。
―それでも、佐藤さんの宗教哲学の立場からは、そこに「とどまれ」と考えられるわけですね。
ひと言でいえば、死んだ人を分かったつもりになってはいけない、ということです。だって私たちは生きている人のことすら分からない。「お前ってこういうやつだよな」と言われたからイラッとする。それなのになぜ「死んだ人」を分かったつもりになるのか。
私が寄って立つのは現代思想ですが、現代思想では「他者の他者性」を議論してきました。「他者は分からない」。その議論を、生者から敷衍(ふえん)して死者についても当てはめ、尊重するべきではないのか?と思います。。生きている人だけで「死者がそう願っている」とすると、「死者にわれわれが望む好きなこと」を投入できる、そして好きなストーリーをいくらでもつくれてしまう。
実際にこのスピーチの後半には、「アメリカ的」なストーリーを死者たちに語らせてしまっているのです。もちろん、ここだけ取れば、それほど有害なアメリカニズムとは言えないから見過ごされてしまいがちですが。
「なぜなら、彼は彼らの喪失は自分あたちの喪失と等しいと信じていたからです。私の国の物語はシンプルな言葉から始まりました。『全ての人は等しくつくられ、生命、自由、幸福追求を含む、奪われることのない権利を創造者から授けられた』(中略)その物語へ忠実であり続けることは、努力に値することです。大陸を越え、海を越えて追い求められるべき理想なのです。全ての人の減らすことのできない価値。全ての人は尊いという主張。私たちはたった一つの人類の一員なのだという根本的で欠かせない考え。これらが、私たち全員が伝えていかなければならない物語なのです」
―確かに、死者からアメリカの美しい大義につながっている。でも原爆の死者はまさにアメリカによって殺されたわけで、それは非常にグロテスクと言うか、傲慢なレトリックのつながりと考えることもできますね・・・。それはやはり記憶の美化、神話化につながってしまう。そして本質的な反省につながらず、また繰り返しかねないということになってしまいますね。
そうだと私は思います。もちろん死者の話を聞くことはできません。でも、1つの物語に落とし込まず、もっと「いろんな声」があるはずだし、それを拾い集めるというやり方もあったと思うのです。例えば、朝日新聞の記事で「供養塔で死者の声を聞いて」という広島の96歳の盲目の被爆者の女性の記事がありました。
彼女は「大事な大事な命なのにみんな殺されたんですよ。死んだのではありません。原爆で殺されたんです」「死者に言葉があるならば、なんと言われるか・・・。私は知りたい」「供養塔に入って死者の叫び声を聞き、心に受けとめて。そして、アメリカのみんなに伝えて」と語っていました。
そして、オバマ大統領は本当に死者たちがいる場所には来てくれなかった。そこに来て死者たちが何を語るか聞いてほしいと書いていた。私は本当にそうだし、それだと思わされました。
オバマ氏の出しているメッセージは、それほど間違っているとは思わない。死んだ人から始め、私たちがこれからどうなり得るのかを考えてみましょう、そして、世界平和を考える、構成としては見事なスピーチだと思います。なによりも広島に来たこと自体がとても意義のあることだとは思います。
私が一番気になったのは、最初から死者たちを、教訓を聞くための先生のように位置付けているように感じたことです。結局「聞く」といっても、極端に言えば「都合のいいことを聞くという姿勢」になっていないでしょうか。
「彼らの魂が私たちに語り掛けます。私たちに内省し、私たちが何者なのか、これからどのような存在になり得るのかをよく考えるように求めているのです」
もちろん、これは戦争をなくすための前向きな姿勢の表れだと思います。後ろ向きなことばかりを考えていてどうするんだ、という批判もあり得ることも分かります。でも、ここ以外に「死者たちに聞き思いをはせるべきこと」はあったのではないかと思うのです。
フランスの歴史家ジュール・ミシュレは「歴史とは死者の物語である」「死者の復活である」と語っています。歴史のことを本当に考えるならば、死者のことを本当に真剣に考えるべきなのではないでしょうか。
―しかし、死者の声を生者が代弁せずに、「死者の声を聞く」ことはいかにして可能なのでしょうか。
それが一番難しいところです。「分からない」という不可知論にするのが一番簡単なのですが、そこから一歩進まなければ意味がないのだと思います。結局「いろんな声」「たくさんの声」の可能性や「実例」を示していくことなのだと思います。
それは「痕跡」的にしか示せないし、「思い込み」も含まれてしまうのかもしれませんが。広島の例でいうと、今まさに撤去されつつある原爆資料館のグロテスクな展示が、怖いからやめましょうといわれている。
でもわれわれの情動を触発するような、荘厳さ、厳粛さ、あるいは「親しみ」でもいい。そういう「情念(パトス)」を触発するような「たくさんの声」を示すやり方が必要なのだと思います。
死者の声を聞くときに「ある特定の死者を特権化しない」ということが大事です。たわいのない死者もいるし、ただ死んでいった死者もいる。われわれの生きている世界というのは死者の痕跡の集積のようなものとも言える。そのような感覚を持つことが「死者に勝手な物語を押し付ける」ことへの1つのストッパーになるのではないでしょうか。
―映画でいえば、例えばナチス・ドイツのホロコーストに関しては強制収容所の生存者にひたすらインタビューしたドキュメンタリー「SHOAH」(クロード・ランズマン監督)という作品がありますよね。宗教哲学という立場から「死者の声」と言われると、はっと思わされますが、実は映画や文学やノンフィクションでは、そういうものはたくさんあるわけですよね。
そうですね、それをいわば「概念として語り直す」ことが、私たち宗教哲学の課題なのだと思います。私自身の宗教哲学は、ポール・リクールからもらった言葉ですが「捉え直し」という言葉をよく使います。「常にわれわれが持っている物事を、概念を通して捉え直し、言葉として解釈する」「経験を捉え直し、語り直すこと」なのだと思います。
私にとって宗教哲学とは「宗教の名において語られていたこと」や「宗教以外の名において語られていたこと」を「捉え直す」ことなのだと思っています。(続きはこちら>>)