同性愛問題やカトリックについての本紙の記事をめぐり、幾つかの意見や反論が、最近、コメント欄を中心になされました。個人的に対論できる場合は、なるべくそのようにしております。しかし、それにも制約があります。2、3の基本的な点を確認しましたので、お伝えします。
基本は、聖書をメガネに、万物について思索し、記事を執筆する基本的な使命の自覚です。
何ができないか、自らの限界を自覚するのは、「おくびょうの霊」から解き放たれ、「力と愛と慎みの霊」(Ⅱテモテ1:7)に導かれて慎みの神学の道を進もうとする場合、不可欠の条件です。
本紙のような規模のインターネット新聞がなんでもかんでも対象を選ばず記事にすることは不可能ですし、してはならないことであると私どもも承知しております。
しかし、何もできない、何も書けないわけでもありません。私たちなりにどのような課題が重要であるか、その課題をめぐってどのような取り組みがなされているかを理解し――例えば同性愛問題――伝達することは可能であり、報道機関としての責務の一部と判断します。その場合、できるだけ客観的な取り扱いと報道がなされるべきです。
もちろん、同性愛問題の課題を取り上げること自体に反対の立場があります。しかし、賛否の主張がなされている事実・事態をあたかも何もないかのごとく沈黙し続けることは許されないと理解します。
上記のように、私どもでもできる、それだけではありません。私どもだからこそ、できる場合もあります。そのような場合があり得ると自覚し、その任を果たす覚悟をしております。
本紙は、聖書をメガネに万物を見、思索を深めようとしています。つまり、自らの認識に制約があり、誤り得る可能性を十分に認め、聖書全体のメッセージに絶えず聞く努力を払いながら、開かれた態度で思索や対話を続けたく願っています。そのような実践を妨げる組織上の圧力がないのは、本紙の利点の1つと自覚しています。
この与えられた恵みの立場を無駄にすることなく、分をわきまえ、分を果たしたく願っています(Ⅰコリント15:10参照)。
以上の自覚から、自分と意見が違うからといって、本紙にこのような記事を載せないようにとの記事不掲載の求めには、原則として応じられません。記事に異論・反論がある場合には、実名で本紙にご連絡いただきたいのです。
記事の場合は記者、コラムの場合はコラムニストに連絡し、編集会議を中心に検討いたします。問題の提起者と本紙の双方が必要を認めた場合は、反論提示の場として本紙を用いていただく可能性も考えております。
以上の基本的な理解に立って、「性に関わる記事」「カトリック教会に対する態度」について各論的に取り上げたく願っております。お祈りください。
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