人間は無意識のうちに優劣をつけたがり、他の人よりも自分が優秀だと思いたがる傾向があるといわれています。イエスの弟子たちは皆対等であり、一人秀でているとかいうわけではありませんでした。ほとんど全員当時のユダヤ社会の底辺にいた人であり、イエスに招かれ、教えを受けていました。
「そのとき、セベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、『どんな願いですか』と言われると、彼女は言った。『私はこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい』」(マタイ20:20、21)
聖書の正しい解釈もできず、御国の霊的な意味も分からないので、この世的な基準で御国の右大臣と左大臣のポストを確保しようとし、母親までも巻き込んでいたというのです。今日の競争社会で見受けられるような出世の争奪戦です。
この世は権力争いが渦巻いています。あらゆる組織で権力を手にしようと画策しない人はいないといわれるのが実情です。エデンの園の誘惑事件のおかげで、家庭の中にも権力争いが入り込んでいると聖書に示されています。
あるカップルの結婚カウンセリングをしていたとき、二人の間に起こったけんかの話にとても興味がありました。けんかの発端は醤油だというのです。
夫は鹿児島出身ですが、妻は関東の出身です。二人とも醤油の好みは違いますので、いつも食卓には千葉の醤油と鹿児島の醤油が2本用意されていたそうです。何も問題はなかったのですが、ある時、奥さんが「あなたの醤油使っていい」と尋ねたそうです。夫は何も問題ありませんので、「どうぞ」と答えたそうです。
ところが、奥さんが「これは甘すぎる。醤油ではない」と言ったのです。「醤油ではない」と否定されたときに、何か自分の人格も否定されたようで、虫の居所の悪かった夫は怒ってしまいます。そしてけんかになってしまったというのです。
「この醤油は甘いね」ぐらいにしておけば、「そうだね」ということで、けんかにまで発展しなかったかもしれません。醤油を否定するとはひどいなあと私は思っていました。
そしてある時、鹿児島の老舗醤油メーカーの社長と話をする機会があり、この夫婦げんかの話を持ち出しました。私は社長に「それはひどいね」という答えを期待していたのですが、意外な答えが返ってきました。
「鹿児島の醤油は、厳密には醤油ではないんですよ。工業製品としてはアミノ酸醸造液が正式名称です。通称として醤油という言葉も許されています。関東の醤油と鹿児島の醤油は製法が全く違います。醤油ではないという関東の奥さんは正しいですよ」と言われてびっくりしてしまいました。
中部地方の出身の女性と結婚する鹿児島の男性は、味噌で対立します。大豆を主にしてつくる中部の味噌と、麦を中心につくる九州の味噌は明らかに異なります。大豆にはたんぱく質があり、力の元になります。だから、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は天下を取れたのだと言う人もいます。
麦には麦の良さがあり、一概に否定はできません。食べ物の味というのはなじむのに時間がかかります。誰でも自分が慣れ親しんだ味をベストと思うのは当たり前のことです。どんな時にも相手の好みの味を尊重することは大切だと思います。
これは米国で聞いた話ですが、ある米国人がアジアを旅行していて、途中で米国のハンバーガーを見つけ、頬張りました。そして「ほっとする」と言ったそうです。
私にも似たようなことがあります。米国で研修を受けていたとき、皆とてもよくしてくださり、食べ物もおいしく満足していました。ところが、日本料理店に行ったとき、白菜の漬物を夢中で食べていた経験があります。食べ物の話は文化の理解につながり、人間関係にも通じることかもしれません。
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人の贖(あがな)いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです」(マタイ20:28)
自分を基準にし、自分の立場を押し付けるのではなく、どんな時にも相手の価値を認め、立場を尊重することから、相手に仕えることが始まるかもしれません。小さなトラブルを乗り越えていくことが社会の安全、世界の平和につながると思います。
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