2日から3日間開催された日本聖公会第62(定期)総会で「ハンセン病回復者と家族のみなさまへの謝罪声明」が採択された。2日は、日本聖公会信徒で群馬県の療養所、栗生楽泉園(くりうらくせんえん)入所者自治会長の藤田三四郎さんが招かれ、ハンセン病の歴史や療養所の実態と法廷闘争、そして教会がそれに向き合ってこなかったことなどについて約1時間メッセージを伝えた。
藤田さんは1926年生まれ。日本陸軍に勤務していた1945年に19歳でハンセン病を発病し、同年5月に栗生楽泉園に入所した。そして施設の中の日本聖公会、聖慰主(なぐさめぬし)教会で洗礼を受けた。その後、全療協(全国ハンセン病療養所入所者協議会)のメンバーとして、らい予防法の改正や廃止、国賠訴訟にも中心の一人として関わってきた。
藤田さんのメッセージの要旨は以下の通り。
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この場でお話しできることを神様に心から感謝御礼申し上げます。私は今から71年前に陸軍病院から栗生楽泉園に移送され、昭和24(1949)年に日本聖公会の聖慰主教会で3年間の求道者を経て、信徒になりました。病気で肉体が腐っていく中、聖書が分からないながら開いていたときに「外なる人は壊るれども、内なる人は日々に新なり」(Ⅱコリント4章16節、文語訳)という御言葉をいただき、現在でもこの言葉を信用して、日々新たに前に前に進んでおるわけであります。
らい予防法が廃止されて今年は20年という節目の年になり、国賠訴訟の裁判勝利から15年目になるわけです。その間、われわれはずっと「らい予防法闘争」をやってきました。
明治40(1907)年に「癩(らい)予防法」という法律が制定されて療養所が設置され、第1号が東京多摩の全生園、第2が青森、第3が大阪に造られましたが、昭和9(1934)年の室戸台風で壊滅し、患者はほかの施設に委託されました。第4が四国、そのほか、熊本、岡山など各地に造られました。その後、国立第1号の長島愛生園が誕生しました。
強制隔離政策と断種政策
患者は不良患者と呼ばれ、病気になると結婚などいろいろな問題がありますから家を追い出されて、物乞いをしながら神社仏閣に隠れながら生活をする状況が続いていました。
その後「無癩県運動」という強制隔離撲滅政策が展開されました。皆様のおじいさんおばあさんを守るために強制隔離して放り込むというひどいことを国はやってきたわけです。
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無癩県運動
1930年代から始まった、ハンセン病患者を摘発して強制収容させ、全ての県内からハンセン病を無くそうという目的で始められた政策。強引な患者の摘発は、患者本人だけでなく、家族の人権まで侵すほどのものだった。熊本では、警官や療養所の職員が襲撃し、患者157人を検挙する「本妙寺事件」も発生した。
全国に13の国立療養所ができましたが、民間では熊本に明治20(1887)年に回春病院が誕生しておりました。これは日本聖公会の紹介の文書を読むと神様の恵みを受けて素晴らしい働きをしている施設と書かれているが、人権は全く無視されていました。
境目をつけて男女別に収容され、結婚は認めなかった。同じように、静岡県のカトリックの病院も男女別、結婚は絶対認めないという厳しい掟がありました。今でも7人の患者が住んでいます。
そこで院長だった光田健輔(1876~1964年)は、回春病院でどういうことを考えたかというと、逃亡を防止するために結婚は認めるが、男性はパイプカット(輸精管を切断)するという状況をつくりました。この問題は国会では通っていない。日本の国会では「パイプカット」をすることはまかりならんとされてきた。
しかし、光田健輔先生はそれをどんどん進めた。全く人権を無視していた状況にありましたことを皆様に考えていただきたい。
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光田健輔(1876~1964年)
病理学者、国立長島愛生園初代園長。文化勲章受章。日本のハンセン病治療の第一線で活躍したが、一方で、強制隔離政策や断種政策などを推進したという批判も根強い。晩年にキリスト教の洗礼を受けた。断種・優生政策
光田健輔は、1915(大正4)年に初めて、入所患者の結婚の条件として、精管結紮(けっさつ)術、卵管結紮術により、強制的な不妊手術・断種を行い、これが療養所の不文律となり、ハンセン病は遺伝疾患でないにもかかわらず、妊婦に対しては強制的な人工妊娠中絶が行われ、男性には輸精管を切断し、結紮するパイプカットが行わた。近年、厚生労働省により設置された検証会議によって、これによる胎児や新生児の遺体と見られるホルマリン漬けの標本が全国に100体以上保存されていることが明らかになっている。
宣教師コンウォール・リーの働き
あるいは信仰を考えると、みんな聖公会信徒で天国に行ったわけですが、栗生楽泉園の場合は、もともと明治20(1887)年に湯の沢部落という集落が造られました。そこに骨が原というのがあり、亡くなった患者は谷に捨てられた。今でもそこを掘ると骨が出てきます。
そこに大正5(1916)年にリー女史が救らい事業に全財産を投与して、人間は神様の前では全て平等であるとして始めたわけです。自暴自棄で生活していたところに、リー先生が入って救らい事業を起こしました。バルナバ教会を造って患者の救済をはかった。患者の中で信仰に入った方が800人近くいたが、そのうち500人近い方が日本聖公会の信徒となったわけです。
そのあと、栗生楽泉園には昭和11(1936)年に、「聖慰主(せいなぐさめぬし)」という聖書の言葉をとって「聖慰主教会」が誕生した。
リー先生は、結婚は認め、幼稚園をつくり保育園をつくり学校をつくった。患者や健康者のことも考えて働きをされた。それから時が流れまして、今年はリー先生の事業が誕生して100年を迎えたわけです、今年は主教さんが栗生楽泉園に来られて、リー先生のお話をされました。
【編集注】
コンウォール・リー(1857~1941)
英国出身の女性宣教師。1907年、英国教会(英国聖公会)福音宣布教会の派遣宣教師として来日。その後群馬県の草津を視察し、聖バルナバミッションとして教会、療養所、学校、幼稚園、保育園などを設立。亡くなるまでハンセン病患者の生活、教育、医療のために活動した。
今、日本聖公会の信徒数はだんだん減少しています。なぜか?そこには大きな問題があります。皆様の胸に手を当ててみればお分かりかなと思います。
アメリカにはハワイのモロカイ島にハンセン病の施設があり、ダミアン神父が素晴らしい活動をしたことで知られています。私も行ってまいりましたが、今はもう患者は一人もおらず、公園になっております。
日本人が移民をしていたので日本人の患者がたくさんいました。400人近い方の墓標が、日本に向いた島の東側に立っています。最近、日本人が墓標を調べて、生年月日と名前の確認作業をしているわけです。
今は「お花の会」という、患者の子どもが社会復帰をして立派に成長をして両親のことを語り合う会があり、お話を聞きました。
治療の歴史
日本においてはどうか? ハンセン病という病気はすでに今から70年前には結核の特効薬が効き治ることが分かっていました。
【編集注】
1941に米国の医師ガイ・ヘンリー・ファジェットによって「プロミン」がハンセン病患者に使用された。本来は結核治療薬として開発されたが、療養所に入所しているハンセン病患者に実験的に投与したところ、効果があることが分かり、1943年に医学雑誌に発表した。プロミンはその後、国際的にも非常に効果のある特効薬であることが確認され治療に用いられた。
レプラ(ハンセン病)患者にも効果があるということで、プロミンという薬が作られて、多摩の施設に送られるわけです。施設の大きな会館に患者が集められたが、誰も手を上げない。そこで中国から来た3人の傷痍軍人の患者にプロミンを精製してあったため、静脈注射したところ数カ月でたちどころにきれいに治癒した。
そこで、当時の芦田(均)内閣に対してプロミン獲得運動をしました。7千万円の要求をするが5千万の予算しかつかず、当時全国に1万3千人の患者がいたが、全員に投与することはできないので、栗生楽泉園では30人いた児童優先で投与され、残りは抽選となりました。病気の軽い人が当たって重い人が当たらない場合もあったのです。そして時が流れて予算がつくようになり、完全に治療がされるようになりました。
その後、施設の衣食住の改善を求めた運動を続けてきました。そして全国の13の代表が集まって全療協を作りました。多摩で第1回の会議をしましたが警察権をもって解散させられ、2回目は栗生楽泉園でやろうとして厚生省から解散命令が来たが続けてきました。それからずっと続けられて来て、今年も鹿児島で第77回の定期集会が行われています。
栗生楽泉園の場合、昭和19(1944)年、1315人の患者で職員が85人だった。現在は患者が85人、職員が206人。この数字を見ても分かるように、療養所では明治22(1889)年から、病棟の看護から何やらあらゆる作業を全て患者がやってきていたわけです。私が入所した昭和20(1945)年は患者が1253人、職員が111人という状況で、病棟の看護を患者がずっとやってきました。
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らい予防法闘争
1953年に「癩予防法」は「らい予防法」に改正される。しかし強制隔離政策はそのまま継続され、また施設内で患者は重症患者の介護、看護、配食、洗濯、消毒、営繕、火葬、糞尿処理、理髪、その他の業務などをさせられていた。これらの政策や待遇の改善を求めて入所者によって「らい予防法闘争」が行われた。