宝塚と「機動戦士ガンダム」からクリスチャン・伝道師になった娘
「家では神様だった」父中心の一家、最初にキリスト教と縁ができたのは妹の早樹さんだった。
「私は『おたく』だったんです。宝塚とアニメファンでなければクリスチャンやってないかもしれないですね」。早樹さんが中学、高校生の1970年代は、マンガ好きなら誰もが知る少女漫画の黄金時代、『ガラスの仮面』『スケバン刑事』が載る『花とゆめ』を読みあさり、阪急百貨店の書店に宝塚のレコードを探して毎日のように通った。
初めて聖書を手にしたのは中学の時、「たまたま宝塚のレコード売り場のすぐ後ろの棚が『ホーリーコーナー』で聖書が並んでいて、読んでいたマンガの影響で聖書を買いました」
そして、東京の演劇学校に通っていた頃、当時人気だった「機動戦士ガンダム」のカイ・シデン役で大ファンになった声優の古川登志夫さんと知り合いになる。その古川さんの奥さんから、帰り道の電車の中で個人伝道され、クリスチャンになることを決めたという。20歳の時だった。
「それで妹が洗礼を受けてなければ、私も両親もなってなかったと思う。どこで何がつながるか分からないものですよね」と由樹さん。
昔から一度決めるとまっすぐ走る性格の早樹さんは「自分の人生を全部神様に導いていただく」と決心、芝居も劇団も辞め、関西に戻り、4年ほどアルバイトやOLをした後に、神学校に通う決心をした。
母の紗英さんは大反対、父も言った。「イエス様が食わしてくれるんか」。その言葉に何も答えられなかった。両親と会話もできなくなり、同じ家に住みながら手紙でやりとりをするような状態。しかし、結局父は「成人してるので、認めるとはいわれへんけど、勝手にしなさい」と譲歩した。早樹さんは関西単立バプテスト神学校に入学、4年かけて卒業し、神学校で働きながら教会に奉仕する中で、同じ神学校の卒業生だった菅原義久牧師と結婚し、夫婦で伝道者として働くようになった。
父と娘
著書に父は当時の気持ちをこう書いている。「バタくさいスマートな宗教は、芸人の家にはごく異質な、そぐわないもののように見えた」
早樹さんは言う。「娘を神様に取られたみたいで少し寂しかったのかもしれません。でも時々、高山右近の洗礼名知ってるか? とかキリシタンだった細川ガラシャの話をしてきたり、自分の好きな歴史とからめて会話の糸口を切り出してくれていました。クリスチャンになった当初、母からは、キリスト教の独特の言葉を使うようになったから『あんた何言うてるか分からへん』と言われたこともありました」
しかし、由樹さんが「私がおるから、早樹ちゃんには好きなようにさせてあげて」と両親を説得。次第に氷は溶けていった。
教会で行った祖母の葬儀
両親が教会に通うようになったきっかけは、家で晩年引き取った祖母(父、一郎さんの実母)の葬儀だった。7歳の時、父を捨てて再婚し、家を出て50年以上離れて暮らしていた祖母は、再婚先の事情があり、葬儀をできるお寺もお墓もなかった。母の紗英さんが言った。「教会でしてもらえへんやろか」「ああええんちゃうか」。父は答えた。教会ならどこのお寺にもさし障りがないからだ。
葬儀の司会と賛美は早樹さんが務めた。喪主として初めての教会での葬儀をしたときの気持ちが、父の著書にはこう記されている。
「質素な美しさのある、実に心のこもったものであった。参列者も、みんな感激していたが、不思議なことに私も涙が出てきて困った」「『最後にこの人は、幸せやったな』これで良かったのだと思った」
「7歳で自分を捨てた母にずっと感じていた寂しさやわだかまりが、ようやくほどかれたみたいです」と由樹さんは言う。
帰り道、妻紗英さんが言った。「キリスト教の葬式はええなぁ、私も教会で挙げてほしい。でもあなたは体面があるからできへんね」。父はぼそっと答えた。「いやそんなことないで。密葬は教会でやってもええで」
「あんなええお葬式をしてもろたんやから、お父さんもお礼に、礼拝に出席しよ」。妻の紗英さんに誘われ、両親は何度か早樹さんの教会に出席した。
教会に行った時の率直な気持ちを父は、こう書いている。「行ってみてわかったことは、教会というところは、ことごとく照れ臭い世界だということであった」。一方でこんな率直な気持ちも。「おもしろいことに、教会というところは、私は「明田川さん」と呼ぶのであった。(中略)クリスチャンの世界では、私は芸人の顔をしなくてすむ」「非常に精神的に楽になった」
「神の目にかかれば、どう飾ろうと、生まれたままの自分でいるしかない」。2000年に紫綬褒章を受章、上方落語協会会長に就任、上方落語界の大御所になったが、晩年父は何度か大病に襲われ、2度の脳出血に倒れ言語障害も出た。それから父は食事の前で黙って祈るようになった。
「お父さん祈ってるで、なに祈ってるんやろ」。娘が耳をそばだてていると、ある日、1回だけ声に出して祈ったのが聞こえた。
その少し前、父はこんなことを娘に聞いていた。「愛する天のお父様、というのはどうも少女趣味であわん。あれは、よう言わんで。ああ言わなあかんのか?」
「それは自分の言葉でいいのよ、御在天の父なる神様、でもええの」。早樹さんが答えると、「ああ、そうか」と父はほっとしたように言った。その頃から自分で祈るということを考えていたのだろう。
最後に背中を押したのは聖書の二つの言葉だった。
「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる』」(ヨハネ11:25)
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)
戦争の中生き抜いた少年期、一人で生き抜いた落語家として、そして数度の大病を振り返り、こう書いている。
「私は落語の世界に入るときも、向こうさんに選んでもらって、今日まできた。あのとき春団治師匠がスカウトしてくれたから、今の私がある。(中略) そう、まだ十五だった私が、春団治師匠に言われて『はい』と答えたように、イエス・キリストにスカウトされたからには『はい』と答えて、従うしかないのである。きっと良い結果が待っているに違いない。何も知らなかった十五の私がそうであるように。今日こうあるように」
「洗礼が入門なら、私は受けてもいいと思った。弟子になるのである。イエス様が師匠である2003年十月二十六日、私は紗英と共に洗礼を受けた」(著書から)
ある日、父は早樹さんに洗礼について尋ねた。「洗礼て、なんで受けるんや?」「洗礼はね、スタートなんよ」。娘は答えた。「入門てことか」「ま、そういうことやわ」。父と母紗英さんは2003年10月26日、早樹さんと夫菅原義久牧師から洗礼を受けた。
著書の最後はこう締めくくられている。「私は弟子であるから、師匠の言うことは絶対である。カラスは白いと言われれば『その通りです』と、決して逆らわない。だから、イエス師匠が、おまえ罪人やと言わはるなら『その通りです』と、言う。お前を愛していると言わはったら『ありがとうございます』と、感謝する。入門したてであるから、ものになるかどうかは、まだまだこれからである。五郎は生涯未完成」
クリスチャンになってからは、教会で落語を演じることも多かった。放蕩(ほうとう)息子の例えをもとにした「蘇生の息子」という創作落語もつくった。早樹さん、由樹さんと共に親子で共演したこともたびたびだ。
早樹さんは言う。「落語には二つの側面があるんです。怪談話の中には、民衆の声にならない声が、お上に面と向かって言えない、抵抗が込められています。もう一つは民衆の生活の知恵。それを誰にでも分かる民衆の言葉でやっていたのが、落語。そもそもルーツもお寺での説法が原型になっているといわれています。父はつながるものを感じていたのだと思います。そして最後まで人前で話して人を喜ばせることに喜びを感じていたと思います」
2009年、家で階段から落ちたのをきっかけに重傷を負い入院するが、肺炎となり体調が急変した。
「もう痛いから管を抜いてあげてください」。家族が医師にいったとき、反応がなかった父がだらんとしていた腕をもちあげた。
「師匠どうしたんですか?」「お祈りの姿勢がしたんじゃないですか?」。家族と弟子が支えてベッドの上で腕を組んだ。そして父はそのまま亡くなった。77歳だった。
その時早樹さんはベッドの隣で父に詩編23編を読み聞かせていたという。
「『主は私を緑の牧場に伏させ、死の陰の谷を歩むとも、恐れない』という言葉通りに逝ったのだと思いました。顔もとても穏やかな、眠るような顔でした」
悲しみよりも、穏やかさに溢れた最期だった。
密葬は近親者で執り行い、葬儀は「召天記念式」として大阪で行った。落語界やファンの人たちが予想以上に詰めかけて式場の外まで人が溢れた。司式は菅原義久牧師、由樹さんが聖書を読み、早樹さんが賛美をした。
それから7年がたつ。西宮北口聖書集会正教師の傍ら「おしゃべり賛美家」として活躍している妹の早樹さんは言う。「こんなふうに音楽伝道をさせていただいているのも、父が救われて洗礼を受けてくれたからだと思います。実際今の私たちの歩みも、父の救いがなければなかったと思うんです」
落語家・女優として活躍する姉の露のききょうさんはこう振り返る。「私が今、教会で福音落語をさせていただくと、父のことを知っている方がたくさんいて、『よく聞いていました』と言ってくださいます。『あの露の五郎がキリスト教信仰を持っていた』ということで、教会に来てくれる方もいます。父は亡くなってなお伝道してくれていることにヘブル書11章を思い起こします。また、私のやらせていただいている福音落語も伝道だとは思っていないんです。むしろ"種蒔き"なんです」
「それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです」(ヘブライ11:12)
インタビューの最後に、お二人の父の一番好きだった聖書箇所を教えていただいた。ヨハネの福音書の冒頭の言葉だった。
「初めに言があった」。それは、戦中、少年時代を過ごし、「言葉」を使う落語家として、上方落語の復活と隆盛に貢献し、最後まで「言葉」で人に笑いと感動を与え続けた落語家・露の五郎兵衛にとって一番ふさわしい言葉だったに違いない。
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落語家・露のききょうさんのゴスペル落語会が今年も行われる。
《ゴスペル落語会in東京》
日時:2016年6月4日(土)午後2時~
場所:常盤台バプテスト教会(東京都板橋区常盤台2‐3‐3)
東武東上線ときわ台駅北口徒歩3分
《ゴスペル落語会》
日時:2016年6月25日(土)午後2時~
場所:大阪クリスチャンセンター
詳しくはホームページ。
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