日本における福音宣教と教会建設が多大の問題を抱えていることは、福音伝道に従事する者が、 日々痛感していることである。ある任意の日曜を取って見れば、その朝に日本全国で礼拝に集まっている人数は、プロテスタント、カトリック、またそれ以外の教派で「キリスト教」を標榜しているものの全てを合わせても、14~15万人を超えることはないのではないだろうか。これは日本の全人口の0・1%をわずかに上回る数にすぎない。
確かに、それぞれの教派の会員数についての公式な報告を合算すれば、日本のクリスチャン人口として約100万という数字が出るだろう。そのうち10万がだいたい毎週の礼拝に出席しており、あとの20~30万人が時々の出席者、残りは、バプテスマは受けているが、今ほとんど出席していないというような人々だろうか。
公式の統計としては会員数があるのみであって、平均出席者の統計というものはない。だから筆者の推定の14~15万人という数字はもともと正確ではなく、あるいは30万人かもしれない。しかしそうであったとしても、礼拝出席者は日本の人口の0・2%ということになる。これはどちらでもよい、五十歩百歩である。
いったいどうして、日本宣教はそのような状況のまま推移しているのだろうか。日本全体の伝道者、牧会者が苦労し、努力を重ね、説教にいわば身をすり減らしている。なぜこのような状況から脱出できないのだろうか。外国の教会で筆者が親しく観察したものといえば、アメリカと韓国くらいだが、いずれもだいたい神学校で学んだことを忠実にやれば牧会が成立する。キリスト教界には牧師たるものが守っていくべき心得や条項のようなものがある。そうして若い牧師たちは着実にそれをこなして前進している。特に優れた人材でなくても、それなりの伝道の果実を上げているのが見られるのである。
もちろんそれらの外国の「方策」を日本に直輸入して役立てようとする動きもあり、戦後の50~60年にわたってそれらが絶えず試みられてきた。しかし、そのいずれもが効果を上げ得ず、定着しなかった。または効果が上がったとしても、それも加えた上でのこのゼロ・コンマ・パーセントの成果なのである。
なぜそうなのだろうか、日本は呪われているのだろうか、神は日本を祝福するのを忘れておられるのだろうか。いや、絶対にそうではないはずである。このような状況の中で、今までに数多く日本伝道に対する分析や提言がなされてきた。筆者は今それにもう一つを加えようとしているのであるが、これが果たして日本の伝道に役立ち、ゼロ・コンマ・パーセントの壁を破る助けになるのだろうか。
恐れをもって、同労の諸兄姉の机下に差し出したいのである。日本は神から見捨てられていない。必ず祝福されるのである。実は筆者のひそかな思いは、日本発の伝道論と方策こそは世界が期待しているものだ、ということである。笑われるかもしれないが、世界のキリスト教会は、まさに日本発の伝道論とその方策によってさらに祝福されると信じるものである。
(後藤牧人著『日本宣教論』より)
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【書籍紹介】
後藤牧人著『日本宣教論』 2011年1月25日発行 A5上製・514頁 定価3500円(税抜)
日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つを無視して日本宣教を論じるとすれば、議論は空虚となる。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障害を形成している、というものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。こうして、キリスト者が上記の三つに関して日本に悔い改めを迫るのは日本宣教の責任の一部であり、宣教の根幹的なメッセージの一部であると考えられている。であるから日本宣教のメッセージはその中に天皇制反対、神道イデオロギー反対の政治的な表現、訴え、デモなどを含むべきである。ざっとそういうものである。果たしてこのような定説は正しいのだろうか。日本宣教について再考するなら、これら三つをあらためて検証する必要があるのではないだろうか。
(後藤牧人著『日本宣教論』はじめにより)
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後藤牧人(ごとう・まきと)
1933年、東京生まれ。井深記念塾ユーアイチャペル説教者を経て、町田ゴスペル・チャペル牧師。日本キリスト神学校卒、青山学院大学・神学修士(旧約学)、米フィラデルフィア・ウェストミンスター神学校ThM(新約学)。町田聖書キリスト教会牧師、アジアキリスト教コミュニケーション大学院(シンガポール)教授、聖光学院高等学校校長(福島県、キリスト教主義私立高校)などを経て現職。