子どもの頃、つまり高校生になる頃までは、友達同士の交わりは本当に楽しい、心からのものであった。ところが高校生になった頃から、交わりというのがそんなに楽しいものではなくなってきた。それどころか苦痛でもあった。時には楽しい交わりもあったかもしれないが、ほとんど心からの交わりといえるものはなく、味気のないものであった。
利己主義というか、成果主義というか、目に見えて効果の分かることをする方が大切で、交わりというような、時間がかかり、曖昧模糊(もこ)としたものは敬遠したい気持ちだった。地元では有名な進学高校であったり、受験勉強のせいであったりするのかもしれないが、本当のところは分からない。本人の持って生まれた性格によるのかもしれない。とにかく、そういう成果主義的な考え方が、今でもまだ色濃く私のうちに残っている。
私たちは何ら誇ることを持たず、崇高にして孤高たるプライドなど持ち得ない。それどころか、神の前には一介の罪人であった。この世の中に生きている私たち、この具象化された世に生きている私たちに対して、霊である神は、私たちのすべき最も大切なことを明示された。私たちが生ある具象化された生物人間ということを踏まえての上である。
「『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです」(マタイ22:39)
私たちが隣人を愛するのは、私たちが神を愛するのと同じく大切なことであると言われた。私たちにとっては、仮に快く思わない隣人であったとしても、神の愛する領民である。私たちも隣人も、同じく神の愛する領民である。神からすれば、神を、心尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして愛するのならば、神の領民たる隣人に対しても、愛を持って接し、交わることができるはずと思うのは当然である。神は、私にするのは、この小さき者にするのと同じであると考え、私たちの心を探られるのである。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)
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米田武義(よねだ・たけよし)
1941年4月16日、大阪生まれ。大阪府立三国丘高等学校、国立静岡大学卒業。静岡県立清水東高校定時制教師を勤めた後、東北大学大学院、京都大学大学院(国土防災技術(株)国内留学生)で学ぶ。国土防災技術(株)を退職し、(株)米田製作所を継承する。2008年4月8日、天に召される。著書に『死に勝るいのちを得て―がん闘病817日の魂の記録―』(イーグレープ)。