混迷の世界に光を
「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ」(イザヤ60:1)
日本に居住する外国人が増えている。中国、欧米も含め文字通り世界中からさまざまな人々が入ってきている。日本では登録者だけで200万人を超えている。日本の多くの地域で、今までなじみがなかった国から来た外国人と接することが多くなっているのは、キリスト教会関係者も例外ではなかろう。その中には、ムスリムも少なくない。このことについて、少し考えてみよう。
世界のイスラムの中枢はサウジアラビアであるが、イスラム圏は世界中に拡散を続けており、欧州、中央アジア(旧ソ連)、東南アジア、北米、アフリカなどにも広がっている。日本に来るムスリムは中東出身だけではない。世界中からやってきている。
ムスリムからキリスト教への改宗者というのは、全世界で数百万人という推定もある。プロテスタントだけでなく、ロシア正教、ギリシャ正教、カトリックも含まれているようであるが、正確には分からない。改宗しても(信仰の決断があっても)公表しない、あるいは、口外できないという事情がムスリム側にあるためであると私も思う。なぜなら、イスラム法では、棄教は死に値するとの解釈があるからである。この適用は個人のレベルから国家レベルまで幅広い。制度化されている国、地域もある。
2015年、世界全体が一層混とんとしてきていると思う。最近では、中東からの難民(多くはムスリム)の大規模流入で欧州の社会にも混乱が生じている。混乱というのは中東情勢だけではない。世界中で、日本も含めて、世の中全体の秩序がなんとなくおかしくなってきているのではないか、という漠然とした感じを持つのは、私だけではないだろう。その感覚はキリスト者だけのものではないであろうが、少し、中東、ムスリムとの関係ということを中心に考えてみよう。
1. 中東最大の産油国、イスラム政教一致の国
中東のニュースで日本でも連日のように報道がなされているIS(イスラム国)の様相、目を覆いたくなるような現実がシリアなどで繰り広げられている。彼らが目指す大義名分は何なのか、よく分からないという方は多いであろう。近年、突然のように世界の報道舞台に登場した彼らは、思考はイスラムの正道を外す異端であり、また、行動は蛮族であるとの多くの論調に自分も賛成である。この課題の解決はまったく先が見えなくなっているが、このIS問題を離れて、イスラムの政教一致のことを少し見てみよう。政教一致という言葉は、日本ではなじみがないと思うが、「イスラム」理解、そしてムスリムを理解する上では、政教一致(政治・行政のすべてが、イスラム法に基づく)という概念の理解は本質的なことと、私は思っているからである。
数十年前から、日本を含む多くの国の発展は中東の産油国に支えられてきた。今や、車なしには私たちの生活は考えられない。この燃料はどこに由来しているのだろう。言うまでもなく、私たち全員が、中東産油国には「大変にお世話になっている」事実がある。皆、石油という大変な「一般恩恵」の上に暮らしているのであって、無関係の人はいないであろう。
サウジアラビアでは数百万人という外国からの出稼ぎがこの国の下支えをしている。私がいた時代にも、インド、パキスタン、レバノン他アラブ諸国、タイ、フィリピンなどから総勢500万人くらいの出稼ぎが来ていた。外国人にはムスリムもそうでない人もいる。また、無国籍のままとなっているパレスチナ人など、きわめて多くの外国人がいる。宗教はイスラムであることは皆が知っているが、この国ではイスラム以外の宗教活動は存在しない。
イスラム教については、唯一神への信仰、断食、一日5回の祈り、喜捨などが一般的に知られているが、生活、政治、倫理、法など多くの領域をカバーしている総合的な価値体系であって、個人の信仰の領域だけではない。この国の法体系はすべてがイスラム起源であり、それ以外の価値体系の混入はない。「法」とは、本来的には人がつくりだすものではなく、神から来るものであるという点で、日本での一般認識とはまったく異なっている。神から啓示されたという意味で「法」は「律法」であるという原理がある。
アラブの世界は、エジプト、ヨルダン、アラブ首長国連邦など多様であるが、多くは「市民法」を持つ国であり、イスラム法の厳格な適用について、これだけの厳しさを持つ国は他にない。この国の国民は全員がムスリムである。
日本は、クリスマスを祝い、正月には神社にお参りするというような一般的な慣習がある国でもあり、宗教的な観点からはこっけいな国であることは、数十年も前から外国で認識されている。このような国から日本の精神風土を見た場合、宗教上は「特殊な国であり、理解困難」ということにもなる。
日本の社会のように、唯一神との契約という概念が希薄な風土とは異なり、アラブでは「唯一神との契約あるいは約束」という風土がある。旧約聖書時代の風土が保たれているともいえよう。あらゆる宗教的要素をのみ込んでしまうような日本の底なし沼のような風土とは対極にある。ムスリムからの視点では、ユダヤ教徒、キリスト教徒は「唯一神を信じる」という意味で「啓典の民」といわれ、ヒンズーや仏教など唯一神への信仰にはない人々の集合とは区別されている。
2. 混迷を深める世界
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩編119:105)
欧米だけではなく多くの国で、「秩序の混乱」が起きている。絶対的な基準から判断して「おかしい」と思うことが多いが、性転換や同性婚ということすら日本でも珍しくなくなってきた。皆さんはどう思うだろうか。「神の定めた秩序」を信じる私たちには、そうした現代の風潮は警戒すべき現象であり、神の秩序に対する反乱であるとの認識は共有されるであろう。「おかしい」と判断する根拠は、神の秩序に照らして、ということであるが、そのような明確な「基準」がない場合には「おかしい」と思えなくなる。社会の中で、圧倒的多数が「おかしくない。これが今は普通なのだ」ということになればそれが「普通」になっていくことは、怖いと思う。
飲酒中毒、ギャンブル中毒、ドラッグ、家庭内暴力、同性愛、同性婚、性転換。おそらくこの流れは、欧米やいわゆる先進国だけでなく、世界中に拡散を続けていくかもしれない。
中東では、欧米の言論の自由、思想・宗教の自由という側面、また、女性の社会での活躍という側面を評価する人々がいる一方で、負の問題、つまり、飲酒中毒、麻薬、暴力、銃犯罪、家庭崩壊、人種差別、男女間の乱れといったことに着目して失望する若者もいる。このように、明確に二分して区分しきれるものでもなく、同じ人物の中にも、双方が混在し、屈折した思いがあることの方が多いかもしれない。
「イスラム回帰」なのか、「欧米流の自由社会」志向なのか。トルコやチュニジア、エジプトなどで国論を二分する議論が続いている。国の将来をめぐる議論は今後も続くであろう。21世紀に入って、そのような議論は一層鮮明になってきているように思える。しかし、中東に生きるムスリムの、欧米に対する複雑な思いは、最近始まったことではないと思う。20年以上前、すでに私のサウジ時代にも、そのような兆しはあった。
欧米社会のさまざまな問題に嫌気がさして、欧米でムスリムに改宗していく若者も増えていると聞くが、インターネット全盛時代、国籍に関係なく、多くの若者の間で価値観の混乱が起きているのではないかと思う。インターネットは90年代初め以降、米ソ冷戦終結以降に米国から出てきたものだが、それから約20年を経て、大量の情報の入手が可能になったという恩恵以外にも、世界中にモラルの混乱を引き起こしていると思う。
別の言い方をすると、近年の特徴として、「律法への回帰」の方向の志向と「律法からの脱出」の方向の志向という大きな二つの流れが、世界規模で鮮明に出てきたと私は思う(前者は異端とされるISという極端な現象も含む)。双方に共通するのは「福音の不在」である。
イエス・キリストにこそ人類史を貫く神の救いの意志の発現として、完成された律法と福音が集中していると私たちは信じるが、以上の二つの大きな潮流にはどちらにも、それへの渇望の精神が見えない。しかし、それでも神の見えざる手は、どこかで今も働いていると信じたい。また、その「器」が求められていると思う。本当の意味で混迷を照らす「光」が、ますます必要になってきているのではないかと思う。
インターネット上には言葉が溢れかえっているが、むなしいものも多い。インターネット上で「神の言葉、福音」に出会える人は幸いだと思う。
「イエスはまた彼らに語って言われた。『わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」(ヨハネ8:12)