「死刑といのちを考える」をテーマに、10月25日に行われた「共に死刑を考える国際シンポジウム いのちなきところ正義なし 2014」2日目の第3部では、4人の宗教者によるパネルディスカッションが行われ、「死刑を止めよう」宗教者ネットワークの事務局を務めている雨森慶為(けいい)氏(浄土真宗東本願寺)を司会に、宗教者が死刑をどう捉えているのか、また人間のいのちの尊厳について話し合われた。
まず初めに、天台宗の宗務職員で住職の松岡順海氏は、天台宗の中で死刑の問題について検討するようになった経緯について説明した。1994年に死刑制度の是非を問う質問が天台宗の議会に提出された後、翌年3月の同議会で「死刑制度に関する特別委員会」が設立されることが決定した。1997年から2年にわたって議論が行われ、1999年3月に「死刑制度について」と題する同委員会の答申が公表された。天台宗の公式見解は、それ以来進展していないという。松岡氏は、この答申の次の内容を紹介した。
死刑の制度は宗教者の立場として認めるわけにはいかないが、そのためには、前提として以下の事項が克服されることを要する、という合意を確認した。すなわち
- 死刑は廃止すべきである。しかし、抑止力の有・無ではなく、死刑の在り方として、応報刑的考え方はとりたくない。
- 教育刑としての限界もあり、死刑に代わる刑罰として仮釈放のない無期懲役刑の採用が必要である。
- 被害者救済の手段を法的に整備し、被害者感情を和らげることが大切である。
- 義務(公)教育を改革し、宗教的情操の指導を強化し、連帯協調の心を養い、非行への誘惑に対する抵抗力を強化することに努める。
- 非行への抵抗力、利他心、愛他心は、幼年期までの健全な家庭生活の中で培われるという。したがって、家庭の再構築、家族の協力性の強化によって、犯罪の減少を図るよう努める。
等である。要約すれば[1]社会環境の整備と[2]法制度の改革の要望である。
この答申で同委員会はさらに、特に強調したい次の3点を再確認している。
- 仏教は、生きとし生けるものを殺してはならない不殺生を説く。あらゆる生き物の生命を尊重する観点からすれば、人が人を殺生する死刑制度は廃止すべきであろう。現在、世界人権宣言(1948・12)の立場から、加害者の人権を尊ぶ主張がアムネステイ・インターナショナルでなされ、死刑廃止の根拠とする向きがある。しかし、(生命を尊ぶ)という立場からすれば、被害者の人権が守られなかった中で加害者の人権を主張するには、納得し難い面が残るし、加害者によって失われた被害者の人権はどうなるのか、という設問が用意されよう。むしろ、ここでわれわれが主張したい点は、人間の為した行為は、その人ひとりがその果報を受けるという自業自得、因果応報の不共業(他人と共通しないその人個人のなしわぎ)にとどまらなくて、広く他者、社会一般と共通する共業として、社会性をもつことを十分に認識すべき点である。
- したがって、加害者(犯罪者)は、自ずからが犯した罪の重みを十分に自覚し、加害者や被害者の家族はもとより社会に対して、自ずからの為した罪を深く懺悔し、悔過の心を持ち、生きて生きて生き抜いて罪を償い、以て人間としてのめざめ、本性に立ち帰るべきである。事実、教誨師の良き導きによって、服役中に人間としてのめざめを体得した犯罪者のケースも多いと聞く。その反面、出所後も犯罪を重ねるケースも少なくないという。
- <自然と共存、共生していかねばならない。今、社会倫理と共生の倫理が改めて問われる現代である。そうした中で、〈生命の尊厳〉と〈悉有仏性(しつうぶっしょう)〉そして他者への〈寛容と慈悲〉を主張する仏教の教えに生きる仏教者として、死刑制度の廃止を望むのが当然である。しかし、その一方で、犯罪の抑止力として、何らかの制度(仮釈放のない無期懲役刑の如き)があって然るべきかと考える。人を殺すことは、如何なる場合にあっても許されないことは当然であると一同時に、犯罪者にとって犯した罪を償うことは、良心ある人間の基本的行為である。
松岡氏は、天台宗の宗祖である最澄の教えと青少年の育成について述べ、「恨みをもって恨みに報ぜば恨み止まず。徳をもって徳に報ぜば恨みすなわち尽く」という最澄の教えは、「私たち天台宗の僧侶が死刑という刑罰を認めがたい一つの根拠になっている」と語った。
また、最澄の「生まれてより以来(このかた)、口に麁言(そごん)なく、手に笞罰(ちばつ)せず。今より我が同法、童子を打たずんば、我がために大恩なり。努めよ、努めよ」という言葉を紹介。「これは、傳敎(でんぎょう)大師(=最澄)自身が生まれてから亡くなるまで、どなったりののしったり、人をむち打ったり、体罰を加えたりするようなことは一度もない。自分と同じ信仰をする者、天台宗の弟子たちを健全な環境で指導していくことが自分にとっての望みであると言っている」と説明した。
そして、松岡氏は、「更生の道をふさぐ死刑のような刑罰が本当に必要なのか問い直さなければならないと思う。さらにこの議論を通じて、現代社会のありようを問い直してゆければと思う」と結んだ。
続いて、カトリック大阪司教区の松浦悟郎補佐司教は、教会の姿勢とそれに基づく自身の考えを述べた。「死刑についてカトリック教会では反対運動が非常に盛んに行われている。日本のカトリック協議会では、正義と平和協議会が『死刑廃止を求める部会』というものを立ち上げて、死刑が行われるたびに抗議声明を出し、また、さまざまなグループと共に死刑廃止の行動をしている」
その一方で、松浦司教は「ただ、カトリック教会は実は死刑制度を容認しているのではないかということがよく言われる。実際にどこに原因があるのかというと、カトリック教会のカテキズムという教えの本の中には、ある特別な場合には死刑は排除されませんということが実は書かれている。この文言をめぐって、教会は、排除されていませんということから、死刑制度を認めているんだと多くの人にはとれるし、それを主張する方もいる。しかし、どういう場合に排除されないかというと、そのカテキズムによると、『不当な審判者から効果的に人命を守ることが可能な唯一の道であるならば、死刑を科すことも排除されていません』。ただしその文言は、その後で少し和らげる表現を加えている。つまり、『死刑執行が絶対に必要とされる事例は皆無ではないにしても、非常にまれなことになります』。つまり、いま死刑をしないと社会の秩序が乱れ、誰かの生命が脅かされて、それがどういう状況かさっぱり分からない。全く今の現状では考えられないのだが、何かそういう状況を想定して、その場合はやむを得ないという言い方をしている」と述べた。
松浦司教は続けて、「ヨハネ・パウロ2世という教皇は、『いのちの福音』という回勅の中で、その原則を覆すことはしないのだけれども、言い方を少し変えている。つまり、『他の方法で社会を守ることができない場合を除いては、死刑にすることはできない』と。つまり死刑はダメだということを強調するのだが、どうしても社会を守ることができないという場合を除いてという言葉が残っていたのである」と説明した。
その上で、「2日前に、教皇フランシスコは、非常に積極的に、死刑はダメだと、全てのキリスト者は死刑廃止に向かって取り組まなければならないということを断言した。何となく歯切れが悪かった、ちょっと可能性が残っていたものを払拭して、はっきりと(死刑の)可能性はもうないということを言い切りながら、全ての人は取り組まなければならないということを断言したという意味では、非常に大きなことだったと思う」と述べた。
また、「カトリック教会はそういう流れの中で、死刑廃止への動きをさらに強めていくことができると感じている」と語った。
さらに、「聖書に基づいてどうしても考えなければならない問題がある。それは被害者の立場から死刑の問題にどう応えるかということだ。結論から言うと、死刑廃止は本当の遺族のいやしにつながる。それはなぜかというと、人間は関係存在である。つまり、人と人が愛し合ってつながっていくのが人間なんだというのがキリスト教の根本的な人間観である。そうすると、人間の幸せというものは、人と人との関係の中である。同時に、本当に人間の尊厳を傷つけられたり、傷ついて生きられなくなるのはやはり人と人との関係によって傷つく。しかしその傷つきをさらに回復していくのは、やはりその同じ人間関係によってしか回復できない。つまり全て関係によって傷つき関係によって回復されていくというのが人間の本質だと思う」と語った。
そして、死刑といやしについて、「いやしのレベルというものをいくつかの段階に分けて考えてみる。最初は全くいやされない段階。つまり残虐な犯罪が行われ、殺されて、遺族の人たちが苦しむ。その人たちが全くいやされないというのはこういう状態である。加害者が逮捕されない。真実が明らかにされない。全てがうやむやにされる。少しいやしに近づくのは、加害者が逮捕され、処罰を受ける。それは被害者にとって良かったというふうになるわけだ。しかしその時にもし加害者が『俺は別に悪いことはしていない。喜んで死んでやろう』とか言って亡くなり、被害者の遺族に対し謝罪もなければ全く関係がなく、ただ一方的に処罰されて死刑になったとした場合に、確かに正義の実現は行われたので、少し自分の中では納得はいくかもしれないけれど、本当のいやしにはならない。それどころか、実は周りに一緒に寄り添おうとしている人たちにとって、死刑になったそれ以上のことは何も求めることはできないので、全てそれで幕引きということになる。けれども、自分を愛する人を殺されたという苦しみは独り抱えてずっと残っていくということが続く。だからその意味で、(死刑は)本当のいやしにはならないということだと思う」と論じた。
「その次に、もう少しいやしが進むのはどういう状態かというと、加害者が逮捕され、本人が心から反省し、謝罪があり、そして償いが続けられるということ。加害者の方ほうが本当に悪かったと涙を流しながら謝る。それは被害者にとっては慰めになるだろう。問題は償いが死刑の場合はそこで瞬間的に終わる。けれども償いが続けられるということは、ずっとその人が生きている限り、『私は悪かった、そのことを心から償いたい』と言いながら、自分の残りの人生を償いの道として歩み続けるという姿を見たとき、実は、死刑によって償いの全てが終わるのではなく、遺族の人にとっては、次のいやしに向かう可能性が開かれる。それで決していやされるということではないだろう。しかし、本当のいやしに向かっての可能性が開かれたまま、その償い続けている加害者を見続けることができる」と、付け加えた。
そして、「最後のいやしの完成は、この世に生きているときにそれが実現するかどうかは分からない。それは、被害者の側が心から償い続ける加害者を見て、『もう私はあなたをゆるす』ともし言えたとしたら、それは和解、いやしの完成なのである。もちろんそれができなくても被害者に責任があるわけではないし、加害者は償い続けながらそれを要求するのではなくて、待つしかない。そしてこの世ではそれは完成しないかもしれない。しかし、それはこの世を超えたところでさらにいやしを本当に願うならば、ここのところを閉じてはいけない。本当のいやしに開かれていく。その意味で、被害者の立場から死刑ということを考えてみたときに、死刑をなくすということは、そういう可能性に向けられたものであると私は考える」と結んだ。
次に、日本バプテスト連盟福岡国際キリスト教会の木村公一・協力牧師は、キリスト教の神学的な視点から死刑の問題を簡潔に語った。
「キリスト教は人間一般の死の問題に焦点を当てているのではなくて、徹底してキリストの殺害の問題にこだわっているということができると思う。事実、十字架の上で殺されたイエスの問題がキリスト教の中核をなしている。そのことについて、韓国の神学者のアン・ビョンムという人が、パウロという人が単に『キリストの死』というような抽象的な言い方をせず、『十字架の殺害』という言葉を使っていることに注意をしている。私はそこから死刑による殺害といのちの問題に接近してみたいと思った。殺人というものは、この対局にあるいのちと同様に、人間の実存的な事柄でありつつ、なお政治社会的な事柄でもあるんだということに気付かなければならないと思う。人はそれが個人によるものであれ、国家によるものであれ、殺害という出来事を一般的な死の問題にすり替えるとき、殺害が持つ社会的・政治的な次元を見失うことになると思う」と、木村牧師は指摘した。
「死刑による殺人は戦争における敵の殺りくと同じ根を持っている。その同根の実態は、両者とも国家による合法的な殺人であるということである」と言い、「現在、免罪符は国家が自らに向かって発行している。戦場に送られた兵士が敵を殺しても罪に問われない。無差別爆撃で住民を殺しても、敵の戦意をそぐことが目的であるという理由で正当化される。なぜか?それは全て国家が発行している現代の免罪符によるものであると言って差し支えないと思う」と語った。
「法律家からは、『国家が自らを免罪するかが問題なのではなく、それ(死刑や戦争による殺りく)が合法か非合法かが問題なのだ』という批判が聞こえてくる」と木村牧師は続け、「しかしキリスト教はその合法性の上位に正当性を常に置くわけである。そして合法性は常に正当性によって批判され、変革を余儀なくされる。そういうことをイエスという人は私たちに教えたのだと思う。イエスの時代に、律法は権力者が民衆を支配するための道具と化していた。そして帝国の支配を補完するためにそうした役割を果たす帝国の宗教に成り下がっていた。その帝国の宗教が生み出す膨大な利権の甘い汁を吸っていたのが、当時の祭司たち、領主、そして官僚たちだった。その利権が脅かされると感じ取った彼らが、イエスと全面対決することになったわけだ」と述べた。
さらに、「十字架によるイエスの殺害には、いくつかの歴史的な側面がある。それを私は4つの側面があると思っている。第一は、帝国の宗教の利権を脅かされた祭司たち、領主、官僚たちが、イエスに復讐を挑み、そして排除・抹殺することへと動いた。第二の側面は、そのために国家反逆罪というえん罪が準備された。そのえん罪には、ローマ帝国、ユダヤ教団、そして民衆という3つのセクターが関係していた。第三は、体制に逆らう者たちの運命の成れの果てを見せしめるという効果が期待された。第四番目には、イエスがバラバの身代わりに殺されるということによって、イエスが殺されバラバが釈放される。私はこのバラバの身代わりに殺害されたイエスに注目したい」と、第二次世界大戦直後に書かれたラーゲル・クヴィストの小説『バラバ』(岩波文庫、1975年)に触れながら語った。
「もしかしたらこの作家はバラバにおいて人類を考えていたのではないか。確かにバラバは人類であり、私たちだ。キリストの殺害によって人類バラバにいのちが引き渡された。にもかかわらず、人類バラバはそのいのちを投げ捨て死を選び取っている。それが現代世界の姿ではないかと思う」と、木村牧師は述べた。
その上で、キリスト教神学の贖罪論について、「いけにえの供え物といった古代ユダヤ教的な概念でイエスの十字架を罪の贖いとして説明すると、極めて個人的な事柄にされていってしまう。そういうことではなくて、この十字架事件の歴史性を土台にして、死刑と戦争による殺害の違法性というものを私たちは明らかにし進めていく、そういうことが私たちに課せられた課題であるのではないか」と結んだ。
最後に、教派神道の新宗教法人である大本の木村且哉氏は、『震災と死刑 生命を見つめなおす 年報・死刑廃止(2011)』(インパクト出版会、2011年)に掲載された連載企画・宗教と死刑1「大本の死刑廃止に向けた取り組み」の内容について話した。
「大本の教祖である出口王仁三郎は、1930年に死刑廃止を主張している。その内容は、『死刑を廃止することは至極結構なことである。元来、刑法の目的は遷善悔悟(せんぜんかいご)にあるので、復讐的であってはならない。殺してしまっては改善の余地がなくなるではないか。人を殺したから殺してしまうというのは、復讐的で愛善の精神に背反するので、実によろしくない』と述べている」と、木村氏は語った。
また、「『人は神の子、神の宮』という大本の教えの中で、悪いことをしたから処刑してしまうとすると、本来人が持っている温かさとか明るさではない、暗いところ、冷たい心を持った者がそういう人を処刑してしまう。そこに悔い改めの心とか、反省の心を、反省させないまま処刑してしまって、さらに処刑されたという恨みを持ったまま、ある意味で暗い世界、闇の世界に永遠に留まってしまう。だから肉体を持っているうちに本人に回心をさせて、被害者に謝罪をさせ、そして生き続けることだ」と述べた。
「大本の大きな教えの一つに、われわれが何のために生まれてきたのかというと、それは地上天国を建設するためであり、そのためにわれわれは全て役割を持つ。その役割を持った人がそうでないこと、人を殺し傷つけるということをして、その思いをもって亡くなっていくことは、神様の人の役割に反すること。だから肉体を持っている間に心を改めて、もう一度社会のために、みんなのために、役割を、死ぬまで、自分の生命がなくなるまで全うするのが、われわれの役割。だから、犯罪を犯した人も、悔い改めて、本来の役割をしてもらわなければいけない」と述べ、えん罪の悲劇を繰り返してはいけないと付け加えた。
木村氏によると、大本では、戦争や災害に巻き込まれた人々の「みたままつり」を毎日行うとともに、死刑が執行されるたびに、死刑囚の名前を読み上げて、神によってあの世で、天国で救われますようにと祈っているという。
「より良い社会を作ることに向けて、皆様と同じ手を携えて、活動をさせていただきたいと思っている」と、木村氏は結んだ。
司会者の雨森氏は、浄土真宗におけるいのちと死刑について、「死刑は仏教でいう不殺生戒において一切弁明することができない」と語った。浄土真宗は、1996年から死刑に関する声明を出し続けているという。「人間というものは罪を犯してしまうということに気付かされ、またそれを伝えていくことが大切である」と雨森氏は述べ、死刑に関する国民感情を「心の中の闇」と呼び、それと対決していきたいと語った。
「死刑を止めよう」宗教者ネットワークは、2003年、仏教徒、キリスト教徒、新宗教の宗教者が集まって、死刑廃止について他の市民団体と共に考え、取り組んでいこうと立ち上がったネットワーク。年2回の集会と、祈りの集いでそれぞれの宗教の願いを表現しているという。
雨森氏によると、同ネットワークは、各宗教に共通する、いのちを大切にする価値観に基づいて、死刑に関わるさまざまな人々の話から学んで、1)どんな人のいのちも神仏から与えられたものであって、人の手で奪うことは許されない、2)どんな罪を犯した人であっても、神や仏の慈悲によって悔い改める可能性というものがあり、その機会を奪うことはできない、3)被害者の救済というのは応報的な刑罰によってではなく、被害者の心理的・社会的支援に向けた努力によってなされるべき、4)犯罪は力によって押さえ込むのではなく、罪を犯した背景を考え、更生を社会全体で支えていくことによってこそ抑止できる、と考えているという。