10月23日に続いて「死刑といのちを考える」をテーマに同25日、YMCAアジア青少年センター(東京都千代田区)で行われた「共に死刑を考える国際シンポジウム いのちなきところ正義なし 2014」。第2部では、「無実の死刑囚・袴田巖さんを救う会」副代表で、カトリック正義と平和協議会「死刑廃止を求める部会」メンバーの門馬幸枝さんを司会に、日本における死刑囚の現状について報告が行われた。
その中で、死刑判決を受けて48年間獄中で無実を訴え、今年の3月に釈放されたカトリック信徒の袴田巖さんは、「全てに勝ち、ついに”天下人”になった。カトリックの精神が勝ち得たものだ」などと語った。
巖さんの姉の秀子さんは、「巖はいまこのような状態だ。だいぶ良くなって来た。3月27日には思わぬ判決で、私は大変うれしく思っている。巖が拘置所の中から生きて帰って来た、生きて外に出たということが何よりだと思っている。私は(巖さんが)いつ死んでしまうのか分からない、そう思いながらハラハラしていた。だけど生きて現実に娑婆に帰って来た」などと語った。
その上で、「(巖さんは)拘禁症がすごい。今は様子を見ている。何が飛び出してくるか分からないが、いまのところは元気で、積極的に外に出ている。これからもしばらく闘いが続く。私たちもがんばって参ります。よろしくご支援をお願い申し上げます」と呼びかけた。
また、1992年2月に福岡県の飯塚市で発生した殺人事件である飯塚事件の再審弁護団の代表をしている徳田靖之弁護士は、この事件で久間三千年さんという方が逮捕されてからも、裁判で有罪が確定してからも無実を訴え続けたが、2008年に死刑が執行された。現在は久間さんの再審を求めて福岡高裁で裁判を続けているという。
徳田氏は、死刑執行という点で飯塚事件がいかに特異であったかについて、3つの点を挙げた。
第一は、久間さんは当初から一貫して無実を訴えており、一度も自白らしきものをしたことがないこと。「この死刑の執行は、無実を訴え続けてきた人に対してなされたという点で、極めて特異である」と述べた。
第二は、久間さんが自分の無実を晴らすために、獄中から支援者らに対して、自分は何としても再審を行うという意思を明らかにしていたこと。「法務省は久間さんが再審請求を準備しているということを知った上で久間さんの命を奪った。このような例は日本の裁判史上初めてではないか」と話した。
第三は、足利事件と飯塚事件で、同じ科学警察研究所の同じ職員が同じ時期に同じ方法でDNA鑑定を行い、(足利事件で犯人とされ、無罪とされた)菅谷(利和)さんについても、久間さんについても、犯人に間違いないという鑑定を出したこと。徳田氏は、「その足利事件について、東京高等裁判所が、この鑑定には疑問があるので裁判所が再度鑑定をやり直すということを決定した1週間目にこの死刑執行がなされている。全く同じ人が同じ方法でやった鑑定で、どちらも菅谷さんも久間さんも犯人に違いないという鑑定が出ていたその一方が、どうやら見直されてしまうということが分かって1週間目に、久間さんの死刑が執行がなされてしまった」とし、「私どもは、これは久間さんがこの飯塚事件における無実を晴らすための再審をまさに防ぐための死刑執行ではなかったのかと考えている」と指摘した。
徳田氏は、「この事件では4つのDNA鑑定がなされているが、久間さんの型は全く検出されなかった。したがって私たちは、このことだけからも、久間さんが犯人でないということが明らかであろうと思っているし、その他の目撃証拠を始めとする証拠も、いずれも再審請求の中で信用できないことが一点の曇りもないまでに明らかになってきていると私たちは思っている」と語った。
その上で、「私はこの飯塚事件の弁護を担当してみて、死刑という制度がいかに残虐なものであるのか、非人道的なものであるのかということを、身をもって感じている。死刑というものがいかに残虐であるのかということは、再審を行って久間さんの無実が明らかになっても、久間さんのいのちは帰ってこないということ、なおかつ、無実を訴える本人を奪われてしまったという再審事件というのは、その無実を明らかにすることはとてつもなく大変である。遺族は今も、彼が犯人に違いないという周囲の偏見の目に囲まれて、『私が遺族だ』ということを公に名乗ることができないでいる」と述べた。
さらに徳田氏は、「私が知る限り、この日本の歴史の中で、すでに死刑が執行されていて、なおかつ明らかにえん罪であると思われる事件が4件あるように思う。1つは大逆事件、もう1つがこの久間さんの飯塚事件、そして3つ目は西さんが死刑執行された福岡事件、そして4つ目が、ハンセン病の患者さんで自分をハンセン病であるというふうに通報されたことを逆恨みして、その通報した人を殺害したとして死刑にされた菊池事件。この4つの事件が、無実を訴えた人たちに対して、死刑を執行してすでにそのいのちを奪っている。私は、こうした4つの事件を通して、死刑制度というのは無辜(むこ)の民を殺してしまう国家による殺人であると思わざるを得ない。何としても私は日本で死刑制度を廃止したいと願っている。そのためには、この飯塚事件で再審無罪を勝ち取ること、国家が無実の人を殺してしまったということを裁判所に認めさせること。そのことが日本の死刑廃止に大きな力になることを信じて、これから自分自身の命をかけて闘い続けたいと思っている。どうかご支援のほどをよろしくお願いします」と自らの決意を表した。
死刑囚たちと文通をしている「麦の会」事務局代表のジュリアーノ・デルぺーロ氏は、刑務所にいる同会の2人のメンバーからの手紙を、2人の麦の会のスタッフに朗読してもらった。
最初に、麦の会の創立メンバーの一人で、死刑判決を受けた後に無期刑となった飯田博久さんの手紙が朗読された。
飯田さんはその手紙の中で、「裁判でも死刑制度の反対という主張をすることは、心から反省をしていないと思われ、死刑判決を招く行為だった。そのため、自己犠牲の覚悟が会員に求められた。なぜ自己犠牲を求めたのかというと、会員には死刑制度に反対をする主張の根拠は、自分の殺人事件を自覚するようにという会員の申し合わせをしていたからだ。このことを『とらえなおし』と称している。自己の殺人という行動を省みて、理解のしかたや判断、行動などの対処の誤りと、その誤りの原因をとらえ、そのとらえたものを直すというとらえなおしにより、さまざまな気づきがあった。その気づきの中に、抹殺の思想がある。それが殺人のトライアングルの一つであり、抹殺の思想の具体的なことが死刑制度だという気づきがあった。自分のような殺人をなくしたいという願いを持つから、抹殺の思想の具体的存在の死刑制度にも廃止を求める声を上げざるを得なかったのだ。この裁判の状況を悪くする死刑制度廃止を求める主張が麦の会の中心となる理由だった」と説明した。
飯田さんはその手紙で、「殺人は殺人のトライアングルが完成した時に起こる。これがとらえなおしの結論だ。殺人のトライアングルには、第一には動機形成がある。第二は共感性という愛の少ないことやないことだ。第三は抹殺の思想だ。この三点で構成され、互いに関係し合う。強制されて行う殺人以外は、この殺人のトライアングルから起きる」と指摘した。
飯田さんによると、設立された時に「麦の会」と名乗ったのは、新約聖書のヨハネによる福音書12章24節「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」が自分たちにぴったりだと思ったからだという。
「いま麦の会は隣人と共に生きることを理念として掲げ、理念実現のために犯罪の減少を目的とし、その犯罪の大きなものとしての殺人を少なくするために、死刑制度の廃止も目的にしている。殺人も含めた犯罪の全てに共通している、愛のない共感のないところからの回復こそが、犯罪の発生を抑え、再犯を防ぐ最大のポイントと考え、加害者の会員にはとらえなおしの実行という自助努力を勧め、とらえなおしのきっかけやとらえなおしを続ける時の心の支援を、愛によって、キリスト教の隣人愛や仏教の慈悲・慈愛によって、共感する愛の回復の助けとなるように、国外のボランティア活動をしている」と手紙で述べた。
デルぺーロ氏によると、刑務所にいる「麦の会」のメンバーは430人ほどで、外で彼らを支援する「麦の会」のメンバーは300人ほどだという。会員数は740人。設立から7年後に出版された同会の著書に『死刑囚からあなたへ―国には殺されたくない』(インパクト出版会、1997年)がある。
次に、「麦の会」代表で、死刑が確定している東京拘置所の伊藤玲雄死刑囚からの手紙が読み上げられた。伊藤死刑囚はその手紙の中で、「私が死刑制度に反対する具体的・直接的な理由を二つ挙げたいと思う。一つ目は、殺人被害者を減らしていかなくてはいけない。もうこの先、これ以上、殺人被害者・遺族として不幸になる人を増やしてはいけないという理由だ。死刑廃止をすると殺人事件が増えてしまうのではないかと心配する人がいるが、死刑を廃止した世界の国々の中で殺人事件が増えた国は一つもない。かえって殺人が減った国はいくつもある。死刑があることによって、人を殺して問題を解決できるという考え方を幼い子どもを含む全ての人の心に植え付けてしまう。それが結果的に殺人を誘発したり、死刑願望自殺のための殺人を生み出し続けることにもなっている。死刑を廃止すれば、それらを根源からなくすことができ、信念とか理念とかではなく、何よりも現実の殺人者を減らすことができる」と述べた。
また伊藤死刑囚はこう続けた。「二つ目の理由としては、日本は独裁国家ではなく法治国家だから、法を公平・公正・正確に当てはめることによって、社会の道徳的バランスは保たれるべきだという道徳正義の観点だ。もし法を不公平・不公正・不正確に、でたらめに当てはめるのであれば、それは法による道徳的バランス・道徳的正義ではなくなってしまい、単なる法を無視した国による殺害という他はない。現在、日本には127名の死刑確定者が生身の人間として生きている。その中で誤判とかえん罪の人は何十パーセントレベルだ。おそらく50パーセント以上だ。私自身も誤った裁判で死刑にされた。私のことを激しく憎んでいるご遺族ですら、あまりにもおかしすぎると言ってくださっている。袴田さん・飯塚事件の久間三千年さんは、一審・二審・三審の裁判所は全て真実を見抜けなかった。死刑や無期懲役かあるいは無罪かを正しく判断できる制度は永久に作れない。なぜなら、どんなエリート裁判官であれ、偏見や先入観や無意識の差別心から逃れられる人間などこの世に一人も存在しないからだ。もし自分は正しく判断できるという人がいるのなら、その人は傲慢という他はない。人間が裁く以上、誤判やえん罪は裁判制度にとって絶対避けられない構造的欠陥であり、人間の努力でなくせるような問題ではないと断言できる。袴田さんや久間さん以外にも同じ不幸に会って来た人が本当にいっぱいいるのですよ。同じ不幸をこれ以上増やしてはいけない。制度自体をなくさないと、また同じ苦しみを受ける人が次々に出てしまう」
「私が死刑制度に反対する最も根本的な理由は、いのちは全ての根源であり、どんな人のいのちも大切にしていくという社会を目指したいからだ」と、伊藤死刑囚は強調した。
そして、「このシンポジウムをきっかけとして、足を運んでくださったお一人お一人が、死刑廃止への取り組みに継続的に関わり続けてくださり、自分の社会のこととして考えてくださるようになったら、とてもうれしい。『麦の会』では、『和解』という機関誌を出している。それを読んでみてください。そして死刑反対の人はどうか具体的に力を貸してください。今日のシンポジウムがそういうつながりの生まれる機会になることを心から願い、私は東京拘置所で過ごしています。ありがとうございます」と結んだ。
聖ペテロ・パウロ労働宣教会の宣教師で修道士でもあるデルぺーロ氏は、「死刑制度の問題を解決するために、根本的なクエスチョン(疑問)に答えなければならないと思う。いのちとは一体誰のものか?いのちは私のものではないし、人のものではないし、国のものでもない」として、麦の会にとって助けとなるという、旧約聖書続編の次の言葉を読み上げた。
「あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとおしまれる。あなたの不滅の霊がすべてのものの中にある。主よ、あなたは罪に陥る者を少しずつ懲らしめ、罪のきっかけを思い出させて人を諭される。悪を捨ててあなたを信じるようになるために」(知恵の書11:24~12:2)
最後にデルぺーロ氏は、「刑務所にいる人たちの絵や俳句などが年3回出版されている(「麦の会」通信の)『和解』と、5年前に死刑執行された(佐藤)哲也さんの物語を載せている『きかよん』という機関誌をぜひ読んでほしい」と呼び掛けた。