第6節 ミューレンベルク伝道地訪問
ブラウンの足跡を前述した『ブラウン伝記』はモンロビア港到着後、ミューレンベルク伝道地までの大略をつぎのように記している。
「 リベリアミッションのエリス・オットー女史は月曜日にムーレンベルク駅に到着し、火曜日の朝11時に彼らはセント・パウロ川から出帆した。船が多少遅延したが、ミイルズブルグに午後7時30分に到着すると、そこでマリー・マルテンズ女史に引率された12人ほどのミッションの少年たちの出迎えを受け、ミューレンベルグに至る2マイル以上にわたる道案内をしてもらった。F.M.トラウド牧師夫妻による夕食会にすべての宣教師が招待された。一人の海外伝道局幹事の歓迎会だけあって、喜びにひたる多くの来客で溢れていた。そこに居合わせた人々は、ブラウンの素晴らしいキリスト教精神と各宣教師が抱える独自の問題に深甚なる理解を表したことに深い感銘を受けた。上に述べた宣教師の外にラウラ・ギリーランド修道女、マーベル・ディズィンガー、さらにジェームスW.ミラーが同席した。」
(「In Memoriam C.L.Brown」)
重複するが、11月10日付でブラウンがミューレンバークから書き送った妻への手紙は旅の模様をよく伝えているので、ここで引用しておく。
「ミューレンバーグ 西アフリカ リベリア 1921年11月10日
火曜日の午前11時、汽艇で25マイル先にある伝道地に向けて出発しようとしましたが、エンジントラブルのために午後3時半まで出発できませんでした。別な汽艇を借りて、出発しました。ちょっとした旅になります。多くの黒人が私たちと同じ川を上っているのに出会います。さらに、別なボートを後ろに繋げ、それらは荷物と人々でいっぱいになっています。広い川を四時間かけてセント・ポールに到着しました。その途中、黒人が歌を歌ったり、ボートが傾くときには、女性のある者たちはかん高い声をあげたりします。
午後8時半に伝道地に到着しました。トラウブ(Traub)夫人により豪勢な夕食が用意されていました。伝道地で働いている宣教師の全員が同席しました。そこに同席した人たちは、ミラー(Miller)氏、トラウブ(Traub)夫妻、ブッシュマン(Buschman)夫妻、オットー(Otto)女史、ディズィンガー(Dysinger)女史、マルテンズ(Martens)女史、ラウラ・ギリーランド(Laura Gilliland)修道女です。」
(In Memorial Charles Lafayette Brown,p89)
海岸に直角に流れ、大西洋に注いでいる、6本の主な河川のひとつであるセント・パウロ川に沿って、上流に向かった。ブラウンがモンロビアから約25マイル奥地にさかのぼったところにあるミイルズブルグに着いたのは、日が沈んだ夕刻であった。ブラウンを迎えたのは、ミュールンブルク伝道地に設立された男子寄宿学校の生徒たちである。
彼らを引率したのは、ペーベ(Phebe)病院で、J・P・ニールセン博士と共に医療伝道の責任を担っていたマリー・マルテンズ婦人宣教師である(ULCA,1922.10.17-25)。
さらに、『ブラウン伝記』で最初に名前が出て、モンロビア港でブラウンを最初に迎えた婦人宣教師エリス・オットー女史は、北米一致ルーテル教会よりリベリアで医療関係、ことにミューレンベルク伝道地の病院での奉仕活動をする看護婦であり、彼女は能動的伝道を展開していた。
医療伝道はリベリアでの伝道にとって欠かすことのできない事業であり、ボードは可能な限りの医療伝道従事者を派遣していった。たとえば、ブラウンが合同した北米一致ルーテル教会の新ボードでの幹事職に就任して、約一年半が過ぎた、1920年5月27日、ボード会議は彼のリベリアでのアフリカ伝道報告を受けて、つぎのような決議をそれぞれ行っている。
「ボードは、できるだけ速やかに別な医療宣教師をミューレンベルク・ミッションに派遣する。」(BMU,1920.5.27)
「婦人宣教協会からの四人の看護婦の派遣要請を受けとめる。」(同上)
「統合前のジェネラル・シノッドから派遣されていた宣教師の身分と資格についての検討が婦人宣教協会から要請されており、これに対しては宣教師婦人も含めて検討していくこととする。」(同上)
つぎに、宣教師館に夕食を用意し、ブラウンの歓迎会を用意してくれた、宣教師F・M・トラウブ(F・M・Traub)はリベリアに、1911年に赴任し、すでに在任期間が10年を過ごしていた。だが、彼は翌年の1922年に休暇でアメリカに一時帰国した後、その年の5月に帰らぬ人となる。
あと一人、ジェームス・W・ミラーはペーベ病院建設の責任者としてボードから派遣され、その建築工事が進行中であり、リベリアに来て約一年しか経っていなかった。
このように現地での伝道活動に積極的努力を払っている同労者からの篤い歓迎を受けて、ブラウンの心には意外な喜びを感じていたにちがいない。
11月10日付の妻への手紙をもう一度引用してみよう。
「 次の日の水曜日、川のこちら側にある小さな薬局と病院、それに男子校、礼拝堂、大工の仕事場、靴屋、洋服の仕立て屋などが並んでいる所に行ってみました。昨日の木曜日は川の反対側に行き、大きな女子校の新しい建物とちょうど完成したばかりの病院を見ました。気になる建物がそこにはいくつかあったので、私としても慎重に調べてみたいと思っています。
ミューレンバーク伝道地の敷地は素晴らしいものです。ここでの伝道活動はセント・ポール川の両側で展開されています。川の両岸は高く、宣教師館からは素晴らしい川の流れが見渡せます。川を渡るには丸木舟が用いされています。それは小さなアフリカ・カヌーで、硬い丸木をくり抜いたものです。」
(In Memorial Charles Lafayette Brown,p89-90)
この手紙の描写は、簡略なものであるが、ミューレンバーク伝道地での数日間の模様を十分に伝えている。
ブラウンが訪ねた頃の、ミューレンバーク伝道地での寄宿学校は、男子の寄宿学校が二つに増え、女子の寄宿学校と合せると、生徒数は70名ほどに達していた。ペーベ(Phebe)病院が女子寄宿学校に隣接して建ち、男子寄宿学校の横にはリード記念教会があった。
『ブラウン伝記」にも同じような描写が語られている。
「 ブラウンはミューレンバーグ伝道地の男子校をまず訪ね、つぎに川の対岸にあるエマ・V・デェイ女学校も訪問した。こうして、主要伝道拠点に設置されているミッション関係の建物及び活動状況をすべて調査した。」(「In Memoriam C.L.Brown」)
ブラウンが訪ねた「エマ・V・デェイ女学校」は、エマ・V・デェイ(Emma V.Day)の名前にちなんでつけられた学校である。彼女はディビット・V・デェイ(David V.Day)の夫人であり、1874年から1897年の23年間、夫婦で伝道活動の強化と拡大に全力を傾注していた。
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(本文は「教会と宣教 第17号」日本福音ルーテル教会東教区-宣教ビジョンセンター紀要-2011年から転載しています)
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青田勇(あおた・いさむ)氏略歴
1975年 日本ルーテル神学校卒業
日本福音ルーテル教会牧師
1992年 本教会事務局・広報室長
1995年 本教会事務局長〔総会書記〕
2009年 日本福音ルーテル教会副議長
*画像は日本福音ルーテル教会のロゴ