~イエス様はこの町に来てくださった~
山谷では、昭和30年代には廃品回収を生業とする通称“バタ屋”の集落が立ち並び、2~3畳間に一家4,5人が住んでいました。「蟻の町のマリア」として話題になった、北原怜子(さとこ)さん等の奉仕活動でも知られます。
昭和40年代に入り、所帯持ちは都営住宅等に移り住み、それ以後の住人は100パーセント近くが男性単身者となりました。女性のほうが、生活力がたくましいのかもしれません。日本の教会は、ふつう女性信徒のほうが多いのですが、そんなわけで私の教会では男性単身者ばかりです。
山谷では数少ない単身女性の一人、B子さんは、身長が私より低く150センチ足らずの中年です。この町には、男性向けの簡易宿泊所のほかに、下宿やアパートもあります。B子さんは、たぶんそんな一部屋で暮らしているのでしょう。かなり重度のアルコール依存症らしく、この症状特有の真っ赤な鼻をしていました。
アルコール依存症は、一旦陥ると男性よりも女性のほうが歯止めが利かなくなり、症状がひどいそうです。B子さんの片足は、膝下からくの字に曲がり、いかにも歩きにくそうでした。生まれつきなのか、小児麻痺の後遺症のせいなのか。この足では、立ち仕事はできないでしょう。生活保護を受けて暮らしているのかもしれません。
B子さんは、毎晩のように酔っては教会の前で、「森本のやつ、出てこい!」とわめきました。そして山谷の男性たちが常習的に使う「なにを!」「このやろう!」等々の威嚇的な言葉を連発しました。誰にも馬鹿にされまいとして、そのように威勢を張っては、惨めな自分を懸命に支えていたのかもしれません。自分のことを「俺」と言い、男の人さえ寄りつけないほど暴れ回っていました。
神を知らない人間が、逆境に落ち込んだ時には、憎しみ、恨み、怒りというサタンが与えるマイナスのエネルギーすら、生きる支えとして消費してしまうようです。悲しい事ですが。
山谷では、不況になるたびに暴動が繰り返されてきました。ことに73年のオイルショックによる不況で暴動が頻発したため、マンモス交番ができて取り締まりが強化されました。暴動という否定的なエネルギーをバネに、束の間、生きていることを誇示したいのでしょうか。
そのような彼らが、毎晩私の教会の集会に出ることによって、羊のように穏やかになっていき、神様の与えるプラスのエネルギーで生きるようになります。
一方で、そんなふうに変えられていく様子を見て、腹立たしくてならないという哀れな人々もいます。B子さんもその一人で、サタンに支配されてしまっていますので、集会をリードしている私が憎くてならないのです。ある日、私はB子さんと教会の前でばったり出会いました。
「あら姉妹、どうぞお入りなさい」
するとB子さんは顔を引きつらせ、目をつり上げキッと私をにらみつけました。口はへの字に曲がっています。いつも怒りや不満に支配されていますと、口の形まで歪んでしまうのです。
私は、彼女の射るような視線を気にせず、やさしく精一杯心を込めて話しかけました。
「いかがですか。お茶でも一杯。おいしいお菓子が手に入ったところなんです。お食事も用意できていますよ。ちょうどよかった」
たとえ、相手がどんな拒絶的な態度を見せても、ひるむことなく、まず惜しみなく愛を示すことです。思ったとおり、B子さんは私の言葉に心が動かされたらしいです。ぎこちない足取りで教会に入ってきて、落ち着きなくきょろきょろと周りを見回しています。これは、アルコール中毒の悪霊に憑かれた人の特徴でもあります。
私は心のなかで懸命に、B子さんに取りついている悪霊を追い出す祈りを始めました。祈りは、相手を変えることができるからです。そして、手早く食事を出し、茶菓もすすめました。彼女が食べている間に、できるだけやさしい口調で、少しずつイエス様の話をしてあげました。
不思議なことに、人はお腹が一杯になりますと、心もほぐれるのでしょうか。彼女は食べ終わりますと、自分の身の上や足の障害のことなどを、ぽつり、ぽつりと話し始めました。「あぶれる」(失業する)、「アオカン」(青空簡易宿泊所=野宿)等、山谷で使われている隠語が飛び出してきますので、何度も聞き返しては説明してもらいました。
B子さんの足の障害は、生まれつきのもので、三年間入院して手術したのですが、半分しか矯正できなかったそうです。結婚して娘が一人生まれたものの、お酒が原因で主人に愛想を尽かされて離婚。一人娘は養護施設に預けました。それ以来、ますます身を持ち崩し、流れ流れてこの町にたどり着いたというわけでした。彼女は、話し終える頃には泣いていました。
聖書には「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12・15)とありますが、私までが思わずもらい泣きしてしまいました。そのことがB子さんの心を動かしたようで、すっかり打ち解けていきました。また、これまでの半生を話すことによって自分を見つめ直すこともできたようです。そのことが、生まれ変われるものなら生まれ変わりたい、との願いを起こさせたようで、その日のうちに、イエス様を救い主として信じました。洗礼式は、教会の浴槽を使って行いました。
教会では例年、クリスマスを迎えますと炊き出しを行います。リヤカーに食糧を満載して夜が明けるまで、台東区内の公園を巡回しては、ベンチなどで野宿している人々に配るのです。炊き出しは、一週間前から準備に取りかからなければなりませんので、12月18日以降は、夜中の二時半以前に寝たことはありません。
B子さんは、この炊き出しを準備段階から手伝ってくれて、不自由な足でクリスマス礼拝案内のチラシも配ってくれました。その礼拝には、たくさんの人々がやってきて入りきれず、二階への階段まで一杯でした。クリスマス・イブには、例年やってきたようにサンタクロースの装束に変装して、綿の口ひげを付け、炊き出しのリヤカーを引きました。その後から、B子さんが押してくれました。
私たちは「もろびとこぞりて」や「清しこの夜」などを、絶え間なく賛美し続けていきました。夜10時すぎていましたが、その賛美を聞きつけて、まだ明かりのついているビルの窓が、そこここでガラガラ開きました。
「ほら、来た来た」
「そうか。今年も、もうクリスマスのシーズンなんだなぁ」
そんなことを口ぐちに言いながら、何人もの人が身を乗り出して見ています。しばらくリヤカーを引いて行きました時、突然後からB子さんが、素っ頓狂な叫び声を上げました。
「先生!先生!見て、見て。私の足、伸びた、伸びた」
見ますと、くの字に曲がっていた一方の膝が伸びており、もう一方の足と同じ形になっています。B子さんは、イエス様への感謝と喜びに満たされて、賛美しながら一生懸命奉仕している時に、いつの間にか癒されたのでした。
そんな奇跡を体験したのは、彼女だけではありません。クリスマス礼拝の最中に、ある人がいきなり悲鳴を上げました。その人はろうあ者でしたが、何と突然癒され、言葉を発することができたのでした。神の愛への感動が渦巻く中で。
また、一人の心病む人が救われて、クリスマス礼拝後、教会周辺の道路に散乱したごみ類を懸命に掃除しているうちに、癒されてしまったのです。クリスマスには、毎年のようにこのような奇跡が続いています。イエス様の、贖罪の愛に満たされる時に、奇跡のみわざを現実に拝することができるのです。ある男性は、仕事中の事故で両足を膝下から切断するはめになり、アルコール依存症にも陥っていました。前途を悲観して、クリスマス・イブに公園のベンチで劇薬を飲んで自殺しようとしたのですが、そこに私が立ちより、この人も救われました。
たしかにイエス様は、いと高きところから私たちを救うために降誕なさり、この町のど真ん中にも来てくださいました(続きはこちら)。
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(本文は森本春子牧師の許可を得、「愛の絶叫(一粒社)」から転載しています。)
森本春子(もりもと・はるこ)牧師の年譜
1929年 熊本県に生まれる。
1934年 福岡で再婚していた前父の養女となる。この頃、初めて教会学校に通い出す。
1944年 福岡高等簿記専門学校卒業。義母の故郷・釜山(韓国)に疎開。
1947年 1人暮らしを始め、行商生活に。
1947年 王継曽と結婚。ソウルに住み、三男二女の母となる。
1953年 朝鮮戦争終息後、孤児たちに炊出しを続け、17人を育てる。
1968年 ソウルに夫を残し、五児を連れて日本に帰る。
1969年 脳卒中で倒れた夫を日本に連れ帰る。夫を介護しながら日本聖書神学校入学。
1972年 同校卒業、善隣キリスト教会伝道師となる。山谷(東京都台東区)で、独立自給伝道を開始する。
1974年 夫の王継曽召天。
1977年 徳野次夫と再婚。広島平和教会と付属神学校と、山谷の教会を兼牧指導。
1978年 山谷に、聖川基督福音教会を献堂。
1979年 この頃から、カナダ、アメリカ、ドイツ、韓国、台湾、中国、ノルウェーなどに宣教。
1980年 北千住(東京都足立区)に、聖愛基督福音教会を献堂。
1992年 NHK総合テレビで山谷伝道を放映。「ロサンゼルス・タイムズ」「ノルウェー・タイムズ」等で報道され、欧米ほか150カ国でテレビ放映。
1994年 「シチズン・オブ・ザ・イヤー賞」受賞。
1998年 「よみがえりの祈祷館」献堂。