~訪問販売収入でうどん給食開始~
何日も何も食べていない人々に、何としてでも食べ物を分け与えなくてはならない。お金のない私は、パン屋さんで食パンの耳を段ボール箱一杯二百円で分けてもらっては、飢え切った人々に配りました。
しかし、何とかしてもっと食事らしい食事をさせてあげたい。それには、私が収入を得なければどうすることもできない。とはいえ、主人を介護しながらでは、定職に就くわけにはいかない。それで「時間的に拘束されない仕事をください」と、条件付きで祈ることにしました。
祈りだして、ちょうど一週間目の夜十二時頃、久しぶりに銭湯に行った帰り道のことでした。神様は、突然私の心に語りかけてこられました。
―あの電柱のところに行ってみなさい。―
行ってみると、そこにはこんな貼り紙がしてありました。
「家庭の主婦で働きたい方募集。委細面談」
(ハレルヤ! これだ、これだ。神様は、私の祈りにさっそく答えてくださったわ)
私は、すぐに信じてしまう性分だし、祈り求めた時には、すでに答えられたと信じることにしています。神様は「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ七・七)とおっしゃっているのですから。
たとえば、ある人が私の名義で莫大な遺産を残しておいてくれたとします。しかし、私はその人を知らないし、遺産も見ていない。でも、それは確かに私のものだと保証されているのだから、すでに与えられていると信じていい。そして、信じた通りの結果が表れる。信仰とは、そういうものです。
私はうれしくなって、さっそくその求人先に出掛けて行きました。仕事内容を聞くと、思ってもみなかった化粧品セールスです。
―あらー、神様。化粧品なんて、ぜいたく品じゃありませんか。伝道者と、何の関係があるんですか。―
一瞬ためらったものの、詳しく聞いてみると、この化粧品はデパートでも小売店でも売っておらず、各家庭に訪問販売する方式をとっているといいます。しめた! それなら一緒にトラクト(伝道用パンフレット)を配ることができる、と思いました。
それで研修を受けたあと、さっそく働き始めました。初仕事の日、厚いガラスびんに入ったワンセット十数種類の化粧品がきっちり詰まった鞄を下げると、その重いこと。腕が抜けてしまいそうでした。でも、もう一方のバッグにトラクトをぎっしり入れて、一枚一枚家々のポストに配っていると、うれしくてうれしくて、鞄の重さなど忘れてしまうのでした。
毎朝、一旦営業所に集合して、一〇時半から分散してセールスに出掛けました。二時半になったら、再び営業所に戻らなければなりません。ところが私は、トラクト配布に夢中で、化粧品を売ることをすっかり忘れていました。
(さあ、大変!)
営業所で「売上明細伝票を書きなさい」と言われて、はたと困りました。ゼロなのです。所長は怒りました。
「一体あなたは、今まで何をしてたんですか!」
さすがに良心がうずいたものだから、神様にこう祈りました。
―神様。あなたを信じていない人でさえ、売り上げが与えられるのですから、信じる私を辱めないでください。―
われながら押しが強いなぁと、自分にあきれもしました。でも信仰を貫くには、押しの強さも必要です。旧約聖書に出てくるハンナという女性は、そんな信仰の先輩の一人です。彼女は、石女(うまずめ)で、それが神様の彼女に与えなさった道だったのでしょう。
ところが、彼女は、どうしても子供が欲しかった。そこで、断食してまで夢中で祈り込みました。その姿は、あたかも酒に酔っていると誤解されるほどだったといいます。神様は、それほどまでの祈りにほだされて、ついにご自身の計画を変えてまで、サムエルという息子をくださいました。
われわれもハンナのように、天地宇宙の創造主である神の御手を動かすことができます。ただしその目的は、もちろん、自分の欲を満たすためではなく、あくまでも神様の栄光を表すためでなければなりません。それさえはっきりとしているなら、どんなことでも遠慮なく押しを強くして祈ったらいいのです。
ポンプ井戸は、初めに呼び水を入れて押し続けないと水が出ません。途中で止めたら元の木阿弥です。祈りも同じで、聞かれるまで続けなければ、祈らなかったのと同じ結果になってしまいます。
セールス初日の晩、主人は高熱が出たため、私は夜通し看病して一睡もできませんでした。翌朝、外は雪がちらつき、間もなく澪に変わるというあいにくの空模様になってしまいました。朝食をとる間もなく、澪でぬかる道を、セールスの鞄を下げて歩き出しました。寒さで体はガタガタ震えています。先にトラクトを配ってしまうと、もう十二時近くでした。
腹が減っては戦はできぬ。どこかにラーメン屋でもないかと、商店街をキョロキョロ見回すと、あったあった、「中華ラーメン」と書いた看板が。ところが行ってみると、無情にも閉め切ったガラス戸に「本日休業」の札が掛かっているではないですか。がっかりすると同時に全身の力が抜け、ふゎーっと気が遠くなっていきました。なにしろ、一日一食しか食べていない吹けば飛ぶような体なのですから。主人の顔が、目の前からスーッと消えていきます。(どうしよう。ジュースとミルクを鼻から入れてあげなければいけないのに…)
われに帰ると、ぬかるみの道に倒れ込んでおり、手も顔も冷えきっていましたが、左手に何かしっかり握っていることに気がつきました。それは、今日配ろうと思っていたトラクトの最後の一枚でした。(私はこれで死ぬのかもしれない)
同時に、キリストの十字架の購いによって救われた者は、死ぬにしても殉教以下であってはいけないとの思いが、さっと浮かんできました。
―主よ、この最後の一枚を配って使命を果たしたなら、命をお取りになってけっこうですから、この伝道を祝してください。―
鞄を持ち直して、かろうじて立ち上がった時、主はこう言われました。
―向かいの道を、右折して行ってみなさい。―
その通りに歩いていくと、生け垣の続いている門構えの立派なお屋敷がありました。主は、次いで言われました。
―その家に入りなさい。―
玄関までの長い通路を、よろよろと歩いていくと、出前の食事を配達に来たとみえるバイクが、私を追い越して入っていきました。私が玄関に着くとドアが開いて、先ほどの出前持ちの人が出てきて、バイクで去っていきました。玄関に出てきたのは、おばあちゃんでした。
「おばあちゃん。イエス様をご存じですか」
「いや、知らんね」
私は、一枚だけとなったトラクトをあげて、人間の生まれながらの罪と、イエス様の十字架の購いによる赦しについて話し、「お願いですから、教会に行ってくださいね」と頼みました。おばあちゃんは、教会に行くことを約束してくれました。
(ああ、これが私の生涯で最後の伝道なのだ)そう思ったら、ものすごく悲愴で感傷的な気持ちになってしまいました。おばあちゃんの前で、「神様、この時を祝してください。おばあちゃんが必ずイエス様を信じますように」と祈っていると、われ知らず涙が出てくるのでした。さらに心の中で、―主よ。この方がイエス様を信じて、地獄行きから天国行きへと運命が変わりますように。―と、加えて祈るうちにホロホロと泣けてきました。
祈り終えると、おばあちゃんも泣いています。
「…あんたはいい人だ。キリストさんか何か知らんけど、私のためにこんなに泣いて祈ってくれて、ありがと、ありがと」
「じゃ、おばあちゃん。必ず教会に行ってくださいね。お願いしますよ」
念を押して立ち上がって、ふっと何気なく目をやると、廊下の隅にラーメンが置いてある。空腹で死にそうなところだったから、思い切って聞いてみました。
「あのー、すみません。このラーメン、どこのお店でとりました? さっき、通りのラーメン屋さんに寄ったら休みだったんです」
「あ、この町にはラーメン屋さんは一軒しかないんだよ。でも休みだったから隣の町のお店に出前をお願いしたの。孫が食べたいと言うものだから。それで一杯じゃ悪いから二人前頼んだんだよ。これ、食べる人がいないのよ。ちょうど良かった。食べてくれない?」
―まあー神様、感謝です。私のためにこのラーメン備えておいてくださったんですね。―
神様は、私たちの求めない先に必要なものをご存じなのです。今だから笑って話せることですが、その時は、神様のあまりに行き届いたご配慮が身に詰まされて、新たな涙が出てくるのでした。
私は「ありがとうございます」と言うなり、遠慮も会釈もなく食らいつき、涙と鼻水まで一緒に飲み込んでしまいました。おばあちゃんは、私の食べっぷりの良さに舌を巻いたようで、よほど空腹なのだろうと察したらしい。台所から、小さなお膳にごはんと魚、煮物等を乗せて運んできてくれました。私は、まるで相撲取りのように食べるわ食べるわ…。食べ盛りの頃が、食料の乏しい戦時中だったせいもあって、ごはん一粒だって粗末にしません。
そばで見ていたおばあちゃんは、またまたびっくり。こんどはデザートに、みかんやりんごを山盛りにして出してくれました。
―ああ神様。人の子が何者あからといって、これほどまでに愛してくださるのですか。―
苦境の中、このような形で神様の臨在に触れた私は、湧き上がるほどの喜びと愛と力に満たされました。
満腹になったとたん、体も元気になってしまいました。
「おばあちゃん。ラーメンのお代、おいくらでしょう」
「いやいや、これ食べる人いなかったんだから、いいんだよ」
それではお礼にと、化粧品を買ってくださったお客様にさし上げるハンカチセットを受け取っていただきました。二時半までに、営業所に戻らなければなりません。時計を見るとあと三〇分足らずです。そそくさと、おばあちゃんの家をおいとましました。
―神様。残りの仕事を祝福してください。―と祈って目を開けたとたん、神様は、―この道を渡って右に曲がりなさい。―とおっしゃる。重たいセールス鞄を引きずるようにしながら、言われたとおりに進むと、さらに神様は、―三軒並んだ家の、真ん中の家に入りなさい。―と言われました。
その家の玄関をノックすると、何とまあ、顔一面シミだらけの中年の奥さんが出て来ました。(しめた)内心そう思いました。というのは、私も目の周りや口の周りにシミがありました。たぶん睡眠不足や慢性的な栄養失調のせいでしょう。ところが、このセールスの事前研修で、シミ取り用の商品サンプルを顔に付けているうちに、三週間でシミがきれいに取れてしまったのです。
でも、セールスではいきなり本題に入り込まず、まずはお客様の顔だちの長所を何か一つほめてあげることが大切です。
「まぁー、奥様。お顔たちが整ってらっしゃいますわね」
私は開口一番そう言いました。そうすれば、相手は悪い気がするはずがありません。果して、初対面の私に心を開いてくれました。それから、おもむろに化粧品を勧めます。
「私自身、この品でシミが取れたのですから、間違いありません」
これは説得力があります。相手が私の言葉をそのまま信じて使えば、シミは取れる。何事も信仰によるのです。私はさらに、「万一シミが取れなかったら、返品してくださってけっこうですよ。とにかく、使ってみてください」と続けました。どんなにおいしい食物でも、味わってもらわなければ、おいしさはわかりません。それと同じで、まずはお客様自身に体験していただく以外にありません。
そして、一回でもシミが取れたというささやかな体験を味わったなら、それが確信となって、化粧品はますます効力を発揮していきます。この仕事を始めてみて、そんな人間の心がよくわかるようになりました。
伝道も、セールスと共通したルールがあると思います。突然「イエス様を信じなさい」と言われても、聞き手は何のことだかさっぱりわかりません。まずは、聖書の言葉に根拠を置いて祈るようにすすめ、神様が答えてくださったという体験をしていただくことです。それが、からし種一粒ほどの体験であってもかまいません。神様は、確かに生きておられることがわかるのですから。その確信を土台に、信仰生活を歩み出していけます。
結局その奥さんは、私の勧める十五万円の化粧品セットを買ってくれました。さあ、鞄は空になりました。神様が、―あの家に入りなさい。―と教えてくださったおかげです。
「ハレルヤ、ハレルヤ。アーメン、アーメン」と神様を賛美しながら、定刻までに営業所に戻りました。この仕事は、売り上げに比例した収入が得られます。その月の収入は思ったより多く、そのお金で山谷の人々にうどん給食を始めることができました。
間もなく私の年間販売実績は、東京都内の営業所全体の中で毎年のようにトップを占めるようになり、何度も表彰を受けました。その賞金もすべて、山谷でのうどん給食のために用いました。これはひとえに、神様がどの家を訪問すれば売れるのかを、そのつど教えてくださったからに他なりません。
クリスマスが間近になったある日、主人の病室の小机の引き出しを開けてみると、五〇円硬貨がぎっしり詰まった茶色い大型封筒が入っていました。封筒の表には、「クリスマスにお使いください」とだけ書いてあり、名前は書いてありませんでした。―うわぁ、感謝します。―
銀行で両替してもらったら、ちょうど三万円ありました。これでクリスマス・ケーキを買って、山谷の人々に配ることができました。神様は、私たちの必要としているものを何でもご存じで、くどくどと頼み込まなくても、さっと与えてくださるのです。
「教会では、うどん給食をしている」と聞きつけて、空き腹をかかえた人々が続々と教会にやって来ました。しかし、給食は食べ終わってしまえばそれきりです。どんなに手厚い社会保障を受けても、それだけでは魂まで満たすことはできないのと同じです。
救われなければならないのは、彼らの魂です。魂が生ける屍のようになっている人々に、イエス様によって救われて新しく生き直してほしい。永遠の命をいただいてほしい。だから山谷の教会では給食は目的ではありません。あくまで、救霊が目的です。そのため、まず全員が礼拝し、メッセージを聞き、賛美したうえで、神様の恵み、おまけとして給食をいただくように厳しく指導してきました。給食は、慈善事業ではありません。
善隣キリスト教会では、昭和三〇年代から上野駅周辺で、ホームレスの人々に給食伝道をしてきました。牧師の金城先生は、その奉仕によって後年勲四等に叙せられました。毎週三回、火木日にはキリスト教病院の厨房で二百人分のお弁当を作り、車に積み込んで、神学生、看護学院生、看護婦たちも乗り込んで、上野駅周辺で配りました。
その頃伝道師をしていた私は、戻ってきたお弁当の容器類や大鍋、釜等を洗い、片づけるのが役目でした。イエス様に購われたことの感謝と喜びが、私に驚くほどの奉仕の力を与え、三時間かかる片付けを賛美しながらやり抜きました。まさに「主を喜ぶことはあなたがたの力です」(ネヘミヤ八・一〇)でした。そしてこの時の体験が、山谷でうどん給食をするうえで、備えの一つだったことがわかりました。
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(本文は森本春子牧師の許可を得、「愛の絶叫(一粒社)」から転載しています。)
森本春子(もりもと・はるこ)牧師の年譜
1929年 熊本県に生まれる。
1934年 福岡で再婚していた前父の養女となる。この頃、初めて教会学校に通い出す。
1944年 福岡高等簿記専門学校卒業。義母の故郷・釜山(韓国)に疎開。
1947年 1人暮らしを始め、行商生活に。
1947年 王継曽と結婚。ソウルに住み、三男二女の母となる。
1953年 朝鮮戦争終息後、孤児たちに炊出しを続け、17人を育てる。
1968年 ソウルに夫を残し、五児を連れて日本に帰る。
1969年 脳卒中で倒れた夫を日本に連れ帰る。夫を介護しながら日本聖書神学校入学。
1972年 同校卒業、善隣キリスト教会伝道師となる。山谷(東京都台東区)で、独立自給伝道を開始する。
1974年 夫の王継曽召天。
1977年 徳野次夫と再婚。広島平和教会と付属神学校と、山谷の教会を兼牧指導。
1978年 山谷に、聖川基督福音教会を献堂。
1979年 この頃から、カナダ、アメリカ、ドイツ、韓国、台湾、中国、ノルウェーなどに宣教。
1980年 北千住(東京都足立区)に、聖愛基督福音教会を献堂。
1992年 NHK総合テレビで山谷伝道を放映。「ロサンゼルス・タイムズ」「ノルウェー・タイムズ」等で報道され、欧米ほか150カ国でテレビ放映。
1994年 「シチズン・オブ・ザ・イヤー賞」受賞。
1998年 「よみがえりの祈祷館」献堂。