男性と女性で女性の方が一般的に寿命が長くなる理由として、女性の方が他人同士で打ちとけやすく、社交性が高いため、他人に認めてもらいたい、受け入れられたいという自己実現欲求が満たされやすいことが挙げられることが佐藤氏から指摘された。一般に男性の方が自尊心やプライドが高く、他人同士でなかなか交わらずに無口でいるため、自己実現欲求が簡単に実現しにくいことが精神的ストレスとなっているという。
神学校で伝道学を教える中野氏は、人に伝道するにも「人づきあい力」が大切で、人に会ったら10秒以内にすぐに話しかけることを心がけていると語った。
~「対人恐怖症」は日本特有の病~
佐藤氏は「対人恐怖症」という精神病について、「話しかけたときに、相手がどう思うかという気持ちが人間にはあり、これの度が過ぎた場合には『対人恐怖症』になりますが、これは日本人だけの病気です。自分が何にも悪い気持ちはないのに、相手が自分を拒否するのではないか…『おはよう』と言って『おはよう』が返ってこなかったら傷つくのではないかという不安をもつことが日本人に多いです。集団主義文化の中で生きているので、人から拒否されたら、生きていけないのと同じ気分になってしまう傾向があります。村八分という言葉もそれを良く言い当てています」と述べた。
また外見上のしぐさも人づきあいでは重要なポイントとなることが両氏から指摘された。見た目においても、顔が笑っていると、自分に対して敵対心がないことが暗に示されるため話しかけやすいという。目だけで笑っても、15メートル以内に近づかないとわからないが、歯を見せて笑うと、かなり遠くからも笑顔が確認できるという。そのような、笑顔でいることによって、「私に対して敵ではない」という相手の警戒心を解くことができ、親密感が伝わり、また上司の場合は、部下に対してやる気を引き起こし、子育ての場合は子供に良い影響を与える要因となるという。
佐藤氏はクリスチャンとなり聖書を読むようになったことで、楽になったこととして、「今まで集団主義文化の中で生活してきたため、周りの人と自分を比べて、横軸で見ると色々な気になることが生じてきました。しかし聖書に出会ってからは、困ったときほど、縦軸がしっかり立っているから、やらなければならないことがはっきり決められるようになりました」と述べた。
職業柄色々な人から相談を受ける佐藤氏は、聖書を信じるようになってから、相談を受ける人たちにできるだけ早く返信することを務めるようになったという。「そうすることで自分が減るわけではなく、寝る前にやるべきことをやらないと『自分のもっているエネルギーを使い惜しみしているような気がしてしまいます。メールの返信は明日ゆっくり書き直すとしても、とりあえず『読みました』という返信をすることで、書いた方が『読んでくれた』ことを確認することができます」と述べた。
佐藤氏は人間関係は英語ではRelationであり、「Re」は「再び」、「latio」は「ことばやものを運んで行く」というラテン語であり、運んでいって返してもらわないとRelationにならないと指摘した。そのため「何かボールを打ってきたら、へなちょこボールでもいいから、拾ってとりあえず投げ返しておく。どういう球がいいかは明日考えれば良いです」と述べた。
中野氏はキリスト教の聖書について「聖書は啓示宗教です。神の権限が示されており、ほとんどの方たちが宗教経験をもっていますが、聖書に書かれてあるキリスト教の信仰は、神からの啓示という宗教体験が一番強く表れるものだと思います」と述べた。
~聖書は加筆修正がない~
佐藤氏は聖書の一番すばらしいところとして、「仏教の経典も良いことがたくさん書かれてありますが、お弟子さんたちによって修正されています。一方で聖書は加筆修正を一切していません。また自分が自信を失っている時に『色即是空』と言われてしまうと、どうにもなりません。すべてのものは空しく、最後は悟りしかないということで、生きていくエネルギーがもらえるかと考えたときに、悟って静かになることはできますが、友のために命を捨てるというエネルギーがもらえるかと考えたときに、それがあるのは聖書でしかないと思います」と述べた。
新約聖書には「喜びなさい」と命令形で御言葉が書かれてある。このことの意味について、佐藤氏は「たとえば原稿を100ページ書かなければならず、昼も食べていないような時でも、『喜びなさい』と聖書では命じています。それを考えるときに、『原稿を依頼してくださる方がいるということが幸せなことだ』と気づくことができます。足が痛いときであっても、『喜びなさい』という御言葉を思うときに、結果として歩けていることに感謝して喜べば良いと思えるようになります」と述べた。
~生かされていることに『喜ぶ』~
佐藤氏は「聖書の『喜びなさい』という御言葉には条件は付いていません。条件なしで『喜びなさい』と書かれてあります。それで何を喜ぶんだろうという根源的なことを考えたときに、『自分の命が今ある、死んでいない、生きている』ということを喜びなさいということなのだと知ることができました。生きているということがどういうことかと考えるときに、みんな『生きたい』と思っていることに気づかされます。そして『生きたい』というオーラが出ている人に人が集まってきます」と述べた。
中野氏は、「全ての人のためにキリストがその愛をもって死んでくださいました。それを自覚する時に『生きる』ようになります。パウロは『我生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり(ガラテヤ2・20)』と述べています。我を愛して、我がために死んだキリストのため、自分が死ぬということは、ある意味(私を通してキリストが生かされているという)その責任を限りなく主張していかなければならないということでもあります。そういう責任性を果たしていかなければならないということが『自分が死ぬ』ということです」と述べた。
佐藤氏は「生かされた以上、この命を下さった方にお返しをしていかなければいけませんが、これが結構楽しいことであり、うれしいことでもあります。『この相手だから愛情をあげない』などのより好みをする生き方はケチくさいし、そのようにしないことが疲れない理由にもなります。生きている命は使い切って、死の瞬間まで使い切って生きたいと思います」と述べた。また人づきあいにおいて、『縁』を結ぶのも、「瞬間業でつかまないといけない」という。相手と接したときに「この人が自分にとって有益か無益かというようなことを考えず、とりあえず御縁があったら、全部御縁にするようにしました」と述べた。
佐藤綾子氏は10日に163冊目となる著書「聖書に学ぶ人づきあい力」、中野雄一郎氏は、4月4日に「聖書力」という単行本をそれぞれ出版しており、同日はそれぞれの著書のサイン会も行われた。