「波瀾万丈」という言葉は、今の日本ではすでに死語になってしまったかもしれません。でも、ここまでの私の歩みを振り返った時、われながら「波瀾万丈」という以外に言い表しようがありません。
(なぜ、私だけが皆の苦労を一人で背負ったみたいに、次から次へと追い詰められるようにして、苦しみを味わわされるのだろう。神様に喜ばれるように、善行に努めてきたつもりなのに、なぜ?)
私は、いつもこの疑問を抱き、神様に問いかけながら生きてきました。神様はすべての人に、それぞれご計画、ご目的をお持ちです。人は、好むと好まざるとに係わらず、一生を通してこの神様の定めたご計画の道を通らされるのです。
そして私に与えられた神様のご計画、ご目的は、この世から見捨てられた山谷の人々を、キリストの救いに導くことです。そのために、もの心つく頃から42年間、否応なく試練という激流に放り込まれました。その歳月は、イスラエル民族を滅亡から救い出すため、40年間荒野の生活を通らされたモーセにも似ています。
イエス様は、十字架にまでかかってご自身の命を与えるほどに、私を愛してくださりました。それほどまでの愛によって、私は本当の愛というものを知ることができました。
私はこのお方以外、何も知りませんでした。いや、知りたいとも思いませんでした。ただイエス様にだけ、涙を流しては苦しみを訴え祈ることなしには、一時間、一分、一秒たりとも生きられませんでした。そして、その苦しみの中でなければ味わうことのできない神様の臨在、愛に支えられて、試練という激流にあえぎながらも呑み込まれることなく、ここまでかいくぐってくることができたのです。
殊に、義母の下でみなし児同然に生きてきた18年間、そして一日一食のそうめんと二時間の睡眠だけで植物状態と化した主人を介護してきた6年間は、山谷伝道のために神様が特別に備えられた訓練期間でした。そのことを、この後はっきりと知らされていくことになるのでした。
~語る言葉が備えられて~
主人の病状は、一進一退を繰り返していました。私は毎朝三時に起きて、流動食を鼻から通すなどの一連の介護を済ませると、神学校の聴講に駆けつけました。善隣キリスト教会の伝道師でもありましたから、教会員たちの家庭訪問もしなければなりませんでした。その合間を見て主人を介護し、夜からは連日山谷への伝道に出掛けました。
主人の脳の働きは、まれに正常に戻る時もありましたが、ふだんは話を交わすことができません。それもあって、私の生き甲斐は山谷伝道以外にありませんでした。思い切り伝道して病院に帰ってきますと、9時の消灯時間はとうに過ぎています。それでパタパタと音のするスリッパを履くわけにはいかず、脱いだ靴を持って、抜き足差し足で廊下伝いに主人の病室に戻りました。
その頃になって初めてお腹が空きだし、その日まだ一度も食事をしていないことに気づきます。配膳室にこっそりしのび込んでは、一束のそうめんを半分だけゆでて、醤油とねぎを少々加えます。石和の病院に付き添って以来、私の体はそんな粗末な食事に慣らされてきたせいもあり、不満は感じませんでした。それどころか、いただく前には感謝の涙がボロボロと出てきました。
―神様。山谷の人たちは、寒風に吹きさらされていなければならないんです。それなのに、私はこの病院で、ぬくぬくと寝ることができるのです。申し訳ありません。どうかあの人たちをお助けください。この温かいそうめん一杯を祝福して、牛肉一キロ分の力にしてください。―
虫の良い願いですが、神様は聞いてくださります。お腹が空いているせいもありますが、そのそうめんのおいしこと。感動の涙とともに、そうめんの味が体の奥の奥にまで浸み通っていくのでした。
満腹の時には、何を食べてもおいしくないものです。信仰も同じです。自分でどうすることもできないような、大きな苦しみや悲しみ、様々な問題の中を通り抜け、酸いも甘いも咬み分ける時、神の恵みがいかに至れり尽くせりだったかがわかります。
私が山谷に行っている間に、主人は、おしめの交換が間に合わなくなり、大小便が洩れ出してしまったことが何回かありました。ふだんは手足が麻痺しているのですが、そういう時だけ、気持ちが悪いものだから、かろうじて手が動くのでした。
ある晩、いつものように消灯後に帰ってきた私は、呆然としてしまいました。主人は思うように動かない手で、汚物のついたおしめをはずそうとしたため、敷布団も掛布団も、手も顔も汚物まみれになっていました。何時間もかけて後始末をしたものの、本当に泣きたい思いでした。ようやく気を取り直して、主人が癒されるように神様にすがり直すしかありませんでした。
主人は、毎日三本の点滴を受けていました。私は、それがなかなか減っていかないのがじれったくて、点滴のガラスびんとにらめっこしながら待っていました。しかしたいていは、終わらないうちに夕方の伝道の時間が来てしまいます。
―主よ。主人が生きるのも死ぬのも、あなたの御手にお委ねします。―
こう祈ってから、同室の患者さんの付添いさんに点滴の後始末をお願いして、山谷に走っていくのでした。ことに雪の降る夕方など、山谷の人たちが寒空の下で震えながら待っていると思いますと、居ても立ってもいられなくなります。聖霊の火に燃やされた伝道は、とどめることができません。それは、神がなされるわざだからです。
しかし、重病人を抱えながら山谷で伝道し、同時に教会の伝道師としての職責を果たすことは無理でした。それで伝道師を辞任し、独立して山谷伝道に専念することにしました。
1973年冬。不況が失業に追い打ちをかけ、山谷では飢えと寒さと病気と栄養失調で亡くなる人々が続出しました。昨日はイエス様を信じて涙を流した人が、今日は雪の路上や公園で冷たくなっている…。
ある雪の日、ホームレスの人たちが、互いの体温で少しでも暖を取ろうとして押しくらまんじゅうのように重なりあっていた時、下積みになった人が圧死したことが報道されました。そんな嘘のような話も、実際に起きています。そして、生きることも死ぬこともできず、雨の中でも雪の中でもずぶぬれになりながら耐えるしかない人たち。彼らの苦しみが切々と伝わってきて、たまらなくなるのでした。
アルコール依存症のAさん、手足のないBさん、痴呆老人のCさん…。病室で、夜中に一人ひとりの顔を思い浮かべますと、心配で眠れなくなります。彼らが救われるように、と祈っているうちについ大声になりますので、同室の人々の迷惑にならないようにと布団をかぶり、口を押さえては祈っていました。
夜を徹して祈り、祈りながら泣き、どれほど涙を流したことでしょうか。あまりに泣き明かしたため目が腫れてしまい、ある日集会で、突然聖書の字が読めなくなってしまいました。
―主よ、字が読めません。―
―心配するな。語る言葉はあなたの口の中に入れてある。―
たしかに、口を開いたとたん、神様は語る言葉を次々と与えてくださいました。それにしても、目が見えるのも、声を発することができるのも当たり前ではありません。神様のあわれみによるのだ、と知りました。連日、説教ならぬ絶叫を続けてきた私は、その頃には渾身の力を振り絞らなければ声も出なくなっていました。
「しかし、主を待ち望む者は新たな力を得、…」とイザヤ書40章31節にある通り、祈っては毎日新しい力が与えられていきました。
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(本文は森本春子牧師の許可を得、「愛の絶叫(一粒社)」から転載しています))
森本春子(もりもと・はるこ)牧師の年譜
1929年 熊本県に生まれる。
1934年 福岡で再婚していた前父の養女となる。この頃、初めて教会学校に通い出す。
1944年 福岡高等簿記専門学校卒業。義母の故郷・釜山(韓国)に疎開。
1947年 1人暮らしを始め、行商生活に。
1947年 王継曽と結婚。ソウルに住み、三男二女の母となる。
1953年 朝鮮戦争終息後、孤児たちに炊出しを続け、17人を育てる。
1968年 ソウルに夫を残し、五児を連れて日本に帰る。
1969年 脳卒中で倒れた夫を日本に連れ帰る。夫を介護しながら日本聖書神学校入学。
1972年 同校卒業、善隣キリスト教会伝道師となる。山谷(東京都台東区)で、独立自給伝道を開始する。
1974年 夫の王継曽召天。
1977年 徳野次夫と再婚。広島平和教会と付属神学校と、山谷の教会を兼牧指導。
1978年 山谷に、聖川基督福音教会を献堂。
1979年 この頃から、カナダ、アメリカ、ドイツ、韓国、台湾、中国、ノルウェーなどに宣教。
1980年 北千住(東京都足立区)に、聖愛基督福音教会を献堂。
1992年 NHK総合テレビで山谷伝道を放映。「ロサンゼルス・タイムズ」「ノルウェー・タイムズ」等で報道され、欧米ほか150カ国でテレビ放映。
1994年 「シチズン・オブ・ザ・イヤー賞」受賞。
1998年 「よみがえりの祈祷館」献堂。