受験の日を迎え、私はひとりで種子島高校の受験会場に入った。島中の秀才が集まってきたように思い、一番小さな中学からの受験者である私は、ひとりぼっちだと感じていた。それでも休み時間に声をかけてくれた受験生がいた。友達になれそうだった。
合格発表の日、自分の受験番号を見つけた。正直うれしかった。しかし同時に、家の事情を考えると心配になってきた。家には中風でもう五年も寝たきりの、義理の母がいたからだ。私はこの母に決して近づくことなく、いつも「ばあ」と呼んでいた。悪い意味ではなく、おばあさんの愛称である。年寄りだったし、村でもこの人のことを「ばあ」と呼んでいたので、その呼び名に違和感はなかった。
父に合格を知らせると、「お前は合格すると思って心配しなかった。だから、学費のことは心配せんでも、しっかり勉強しなさい」とだけ言ってくれた。
家から高校までは二十キロもある。当時バスは一日一回だけ、自転車通学もできなかった。西之表には父の知り合いがいたが、私と同級生の孫娘、信子さんがいるから同宿はできない。受験の日だけ泊めてもらい、彼女といっしょに受験し合格した。
ちょうど中学の先輩に徳永三伍さんという秀才がいた。だが彼も妹の筆子さん、道子さんといっしょに下宿している。お願いするのはむりだ。三伍さんが心配して、一人で下宿していた遠藤さんという友人に頼んでくれた。彼は喜んで迎えてくれ、阿世知さんという家で自炊下宿をすることになった。
遠藤さんは、朝の食事と弁当、夕食を交代で作ろうと言ってくれた。ところが最初の朝、遠藤さんはなかなか起きてくれない。阿世知さんは弓道の名手で、朝五時にはもろ肌脱いで弓を射る。朝の澄みきった空気を裂いて矢が的に当たる。遠藤さんは何度呼んでも起きてくれない。しかたなく一人で七輪を出し、火を起こした。ちょうど阿世知さんが釣瓶の所に顔を洗いにきた。その時、米を研ぐ私の手元から一粒の米が流れた。阿世知さんは厳しい声で、「もったいない。拾いなさい」と言うと、それから米の研ぎ方、ご飯の炊き方の手ほどきをしてくれた。
この家に住んだのは、学校の寮が完成するまでの一年弱だったが、その間に掃除の仕方から礼儀作法、武士としてのたしなみに至るまでしつけられ、感謝している。ただ弓だけは教えてくれなかった。私のスポーツ嫌いを見抜いていたのかも知れない。なお阿世知さんの娘の喜和先生は中学の教師で、私といっしょにバプテスマを受けた。
同じ中学出身の同級生は一人もいなかったが、良い先輩に恵まれ、すばらしい同級生も多く、ガールフレンドにも出会い、楽しい高校生活だった。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。