講演会は午後2時から開催され、講演の最中に東日本大震災から3カ月が経過する2時46分を迎え、講演を中断し講師と参加者がともに祈りの時をもった。
阿久戸氏は大震災という悲惨な出来事が日本社会にとって「新しい萌芽」となるためにキリスト者、日本社会全体がどのような価値観の転換を行っていかなければならないかを聖書的視点から提言した。
死亡者数が3万人を突破する可能性もあるといわれる東日本大震災は、多くの人々を震撼させ、世の中のメディアからは、「神」の存在自体をも強く疑う言論も発せられた。キリスト教界の間でも大震災を通した神の御心について「天罰である」とするキリスト教指導者なども存在し、信じる人々の心を騒がせてきた。
聖学院大学学長である阿久戸氏は今回の大震災を通してキリスト者、そして日本社会が学ぶべき教訓として「強者だけの社会から助け合う社会へ転換するべきではないか」と提言した。これまでの日本政府による「強者の国へ」志向に警鐘を鳴らし、人工的に「強者」を造り上げる教育システムから、共にに苦難を経験して弱さを助け合う社会への転換がこれからの日本社会に必要であると強調した。
阿久戸氏は1945年広島原爆被災の風景と今回の東日本大震災の風景が酷似していることを指摘し、「これは日本の第2の挫折・敗戦体験であり、この事実をキリスト者が受け止めて先駆けて行かなくてはならない」と述べた。
大震災直後には、ある地方自治体の首長から「現代の腐敗した若者文化への神罰だ」という声が聞かれたり、阿久戸氏自身に対しても、ある地方自治体の首長から「神っているんですか?」と問いかけられることがあったという。さらに朝日新聞発行の週刊誌「AERA」(2011年4月10日号)では「神は人を殺した」「神はただのハリボテ」とまで書かれた。
阿久戸氏はこのように日本社会が混乱している時に、キリスト者がこの大震災の意味を聖書的視点からしっかりと理解し同じ過ちを2度繰り返さないようにしなければならないと述べ、聖書のヨブ記、イエス・キリストの受難から大震災をキリスト者としてどのように受け止めるべきか説明した。
今回の大震災は受難節3日目の3月11日に生じた。阿久戸氏は、イエスの十字架を見ることで、神の全能の本質を知り、苦難を共有し罪を贖う所に神の臨在があり、大震災を通して被災者と苦難を共にし、復興活動をすることが、十字架からの復活に象徴されていることを指摘した。大震災の苦難について、インド哲学や仏教ではひたすら忍従することを説くが、キリスト教徒はただ耐え忍ぶだけではなく、そこから新たに変わっていかなくてはならないとし、そのためにもイエスの十字架の苦難の意味を改めて深く黙想することが大切であると述べた。
苦難が生じたことについて、マルクス主義やイエスの時代にシモンペテロが所属していた熱心党などでは「反抗や怒り」を訴えることでこれまでの体制に反発を示してきたが、これは「剣を取る者は剣で滅びるようなものである」とし、また「理由なき苦難を与えるはずがない」とする因果応報や合理化の考え方は「ヨブ記」において苦しんでいるヨブを追い詰める3人の友人のようであり、被害者を追い詰める考え方であると否定した。苦難を通して教育が得られるという考えもあるが、これは「ヨブ記」のエリフの言の中にも現れており、箴言やヘブライ書にも通じる考え方であるが、これも「被害者自身が自ら教育的な見方を示すときに輝きを示すのであり、被害者以外が言うべきではない」と否定した。
阿久戸氏は生まれつき目の見えない人を癒やす奇跡の書かれているヨハネの福音書9章1節~3節に、苦難の意味をキリスト教的に見い出す答えがあることを示し、苦難を通して神の業が日本の地に現れることを覚えるべきではないかと問いかけた。
聖書の中には旧約・新約を通して多くの苦難が書かれている。神の御姿であるイエス・キリストご自身が、十字架に架けられ、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばれ受苦をまっとうされた方であり(マタイ27・46)、その後新しい永遠のいのちによみがえられた方である。渇く者に渇くことのない命の水を賜る方であり、空中に権を持つ者(サタン)の脅かしと戦われ、はるか最頂天に昇られ、勝利された方である。東日本大震災ではそのような苦難を被災者が代表して受けているともいえるという。
米哲学者のジョージ・サンタヤナは「過去を思い起こし得ないものは、過去を繰り返すように運命づけられている」という名言を遺している。阿久戸氏は、日本が広島原爆を受けてからこれまでの歴史で「強者を優先する国」として進んできたことに対し、キリスト者は真っ向から「NO」と言い、助け合い、支え合う社会にしていくための歴史的分かれ道に直面しているのではないかと述べた。
イエス・キリストが十字架の苦難を受けて後復活されたように、「本当の強さ」とは苦しみや挫折を乗り越えてこそ発揮されるものである。これからの日本社会の教育の在り方についても、これまでの受験型教育の在り方から、受験戦争で負けても敗者復活することができ、自分だけ高得点を取り続けるようなことを目指すのではなく、フィンランドの少人数制教育のように、理解することのできない生徒に理解できた生徒が教え、どうして理解できなかったかを学び合うような教育スタイルに変えていくべきだと提言した。
東日本大震災後の4月6日、菅直人首相と高木義明文部科学相は連名で「新学期を迎える皆さんへ」と題して子どもたちに「他人のために祈り涙する温かい心」を育むように呼びかける異例のメッセージを発表した。メッセージの中で「この大震災を通じて、日本国と日本社会は、大きな変化を余儀なくされます。(中略)『ほんとうのさいわい』とは何でしょう。それを皆さんが真剣に考えてくれるなら、きっと皆さんは、どこまでもどこまでも、一緒に進んでいけるはずです。そしてその先には、もっともっと素晴らしい新しい日本の国の姿があるはずです」と子どもたちに語っていた。
阿久戸氏によると、苦難についてさまざまな哲学や宗教がその解釈の仕方を提示するが、苦難の中に神の臨在があり、共に苦難を乗り越えてこそ主の臨在による栄光を示すことができるという考え方はキリスト教以外には見い出せないという。広島原爆、東日本大震災という2度の酷似した風景を示した惨事を乗り越え、日本がまさに政府の期待する「もっともっと素晴らしい新しい日本の国の姿」にキリスト教の精神をもって近づいていけることが期待される。