1845年からの飢饉の前から、すでにアイルランドは食糧難の危機に瀕していた。孤児や浮浪者が政府から援助を受けられるような時代ではなく、彼らはただ路頭を彷徨っていた。プロテスタントとカトリックの対立は存在こそしていたが、カトリックの両親の下に生まれたダブリン出身の孤児の女の子をプロテスタントの里親が引き取るということは、あり得ないことではなかった。
キャサリン・エリザベス・マコーリは医師コンウェイの家に引き取られた。コンウェイは敬けんなプロテスタントだったが、キャサリンは彼の通うプロテスタント教会の礼拝出席を拒んだ。キャサリンが18歳のとき、彼女はキャラハン夫妻という新しい家庭に引き取られた。彼女の影響で夫妻はローマ・カトリックに改宗した。1822年、キャラハン氏が亡くなるとき、彼はキャサリンに幸運を残した。彼女は35歳であった。
彼女は肉親を失ったことが、貧しい人々のために働きたいという夢につながったのかもしれない。彼女は貧しい人たちのために奉仕活動をしながら、1824年ごろまでには彼女が長年夢見ていた慈善活動の施設建設に向けて具体的な計画を立てていた。そして1827年の今日、9月24日、彼女は「House of Mercy (慈悲の家)」を開いた。労働しながら家庭を支える女性のために建てられた慈悲の家は学校と住居からなる。当時多くの人が職を求めて路頭に溢れていたとき、彼女は職業団体と協力して解決に努め、そしてまもなく孤児院の建設に取り掛かった。
彼女は修道女になることには全く興味が無かった。彼女と共に働いていた人々の多くが宗教職に身を転じてしまう中、日常の霊的訓練と教会職から取り入れた作業衣以外は、彼女は慈悲の家に特定の宗教色を持たせようとは思わなかった。彼女が宗教的要素を取り込もうとすると、ローマ・カトリック教会からの嫉妬と干渉を受けることになる。彼女の働きを異端視し、絶えず圧力を加えてくるのだ。キャサリンは「Sisters of Charity(慈善修道尼会)」と戦わなければならなかった。醜い偏見と権力争いが彼女に対して迫ってきていたのだ。
ダブリンの大司教はキャサリンを呼び寄せた。彼女は彼の保護の下に全ての資金を得ていた。司教は彼女の活動から全ての宗教的要素を廃止するか、あるいは公式にカトリック教会の統制下に置くか、彼女に決断を迫った。
やっと軌道に乗り始めてきた仕事を諦めることより、カトリック教会からの指導を受けながらも慈善事業を発展させて人々のために働くことを選ぶキャサリン。「聖アウグスティノの会則」と呼ばれる指導書の内容を、これまで用いてきた介護案書に書き加えた。1831年12月12日、彼女は「貞節、従属、貧困の誓約」を提出。これにより「House of Mercy(慈悲の家)」は「Sisters of Mercy(慈悲修道尼会)」となった。
彼女の生きている間、カトリック修道会は各地に広まっていった。キャサリンはロンドン市内に2つ目の家を建て、貧しい女の子の教育のため、若くして貧困に苦しむ女性や貧しくして病に伏している人々のために用いた。1841年、彼女の死後、「Sisters of Mercy」は成長を続け、今日では英語圏の国々の中で最大の修道会財団となっている。