ウェスレアン・ホーリネス教団淀橋教会で開催された第15回「ホーリネス弾圧記念聖会」午後6時半からの聖会で、日本ホーリネス教団神戸教会の斉藤溢子師の立証に続き、同教会の斉藤信男師が「受難の中にも神の豊かな恵みを」(?テモテ2:8〜10)と題して説教した。
この本文の手紙を、愛するテモテに書き送ったパウロはまもなく殉教した。パウロが体験した弾圧、それが昭和のはじめに再び日本を襲った。
特高警察によって捕らえられた牧師たちに、裁判所は次々と治安維持法違反の罪で有罪判決を言い渡した。家庭に残された子どもたちは「国賊の息子」という汚名をつけられ、普通に学校へ通うことも難しい状況であった。
当時まだ学生であった斉藤師もこの例外ではなかった。「国賊の息子に近づくことは危険」いつしか周りにいた友人たちが一人、またひとりと離れていった。いつも孤独であった。
そんなとき、斉藤師は初めて自分の信仰について深く考えるようになった。牧師家庭に生まれはしたものの、それほど深く信仰について考えたことはこれまでになかった。「弾圧によって、初めて『自分はクリスチャン』だという認識が強くなった」という。「負けるものか。いじめるなら、いくらでもいじめてみろ!」いつしか弾圧への抵抗力が養われていった。終戦後は、迷わず神学校へ入学。弾圧が斉藤師の信仰を目覚めさせた。
特高警察による一斉検挙の後、教会は閉鎖、牧師は捕らえられた。早期に釈放された若い牧師たちの生活もすべて特高警察の監視下に置かれた。薬の行商や、安い賃金の工場働きでやっと生計を立てる牧師もいた。中には長い獄中生活を強いられた牧師もいる。「私はあの時、死を決意したことがあった」釈放後、ある大先輩の牧師から聞いた言葉を斉藤師は決して忘れることができなかった。
斉藤師の父は保釈まで丸2年間、拘置所にいた。保釈後、家に帰ってきた父の姿は、この世のものとは思えず、まるで墓から帰ってきた亡者のよう、自分の力では歩くことさえできなかった。「あと数日釈放が遅れていれば、父は死んでいた」斉藤師は父の姿を見てそう思ったという。
しかし、そのような激しい迫害の中にも確かに神の豊かな恵みがあった。
拘置所には食料が絶対的に不足していた。知り合いからの差し入れがなければ、決して生きて出てくることはできないという過酷な状況。しかし、自宅から拘置所までは遠く、差し入れる食料もない。母はただ神に祈るだけであった。
そんなとき、神は「エリヤのカラス」(?列王記17:6)を父に送った。なんと、疎遠であった拘置所の近くに住む裕福なおじが、あるきっかけで母の願いを知り、大きく心を動かされたというのだ。それからというもの、おじは拘置所に欠かさず、そこの看守でも食べることができないような立派な弁当を持ってきた。父はもうひとつの、さらに過酷な拘置所に移るまでの一年間を、こうして無事に過ごすことができた。
また釈放後しばらくして、おじは父を鉱山の現場監督に抜擢。当時の深刻な食料事情では考えられないほど、食卓はいつもたくさんの食料で満たされていた。
斉藤師自身も主の守りによって死線を乗り越えていった。東京大空襲では、前まで住んでいたおじの家は消滅、そこにいた親戚2人は命を落としたが、斉藤師はちょうどそのとき住まいを別の場所に移していた。「小さな私だが、神は限りない哀れみと恵みの故に生かしてくださった」と語った。
ついに昭和20年8月15日、父の判決前に戦争は終わりを迎えた。終戦を迎えた父の日記にはこう記されていた。「信仰の自由は与えられ、われらの世界となれり」「なんという不思議な神の御業よ」「かくなるまったき自由を与えられるとは」
最後に齊藤師は、「信仰の帯を腰にしっかりとして、生涯主に仕えていきたい」と試練によって純金のように練られた、確かな信仰の決意を語った。
集まったおよそ90人の信徒らは、弾圧を実際に経験した者が語る重みのある説教に真剣に耳を傾け、「弾圧が私の信仰を目覚めさせた」という恵みに共にあずかった。