申鉉錫(シン・ヒョンソク)牧師 | |
桜美林大学(obirin Univ.)の元人気講師、申鉉錫(シン・ヒョンソク)牧師のコラム第6回目です。 このコラムは、韓国オーマイニュース(http://ohmynews.com/)に掲載され、当時大きな反響を呼びました。在日韓国人牧師という立場から、同師が日本宣教への夢を語ります。
◆はじめに
日本に初めてキリスト教を伝えたのは、カトリックの司祭でありイエズス会士であったスペイン人のフランシスコ・ザビエル(1506−52)であった。1549年鹿児島に初来日して同地および平戸・山口・京都・豊後府内に宣教した。その後キリスト教の宣教は、織田信長に支えられ、日本にキリスト教が根付くと思われたが、1587年豊臣秀吉によりキリスト教宣教禁令と鎖国政策となり、バテレンは追放され、キリスト教宣教は不可能となって消滅した。
次はプロテスタントの宣教師による宣教が開始され、日本にキリスト教の福音が広まった。
古屋安雄牧師の著書『日本のキリスト教』によれば、「今から丁度140年前の1859年に初めてプロテスタントの宣教師が日本に、アメリカから派遣されてきました。そのなかには、プリンストン大学の卒業生で、長老教会の医療宣教師であった、ジェームス・ヘップバーン(日本名ヘボン)もいました」と述べている。その後、沢山の宣教師が欧米から日本に派遣され、日本の教職者・信徒と共に力を尽くして宣教してきたが、その成果は乏しく、今日に至るまで日本のキリスト教人口は増えず、日本の総人口の1%に留まっているのが現状である。ではなぜ日本ではキリスト者人口が増えないのか、日本の知識人に語って貰うことにしよう。
◆1.?沼地としての日本
日本にキリスト者人口が増えない理由を、カトリック文学者遠藤周作は小説『沈黙』において、登場人物の一人である“フェレイラ”という信仰を捨てた司祭の口を通して語っている。
フェレイラは、ポルトガルのロドリゴという同じパードレ(司祭=神父)に棄教を迫る。だがパードレは棄教の勧めを拒否する。が、フェレイラは囁く。「20年間、私は布教してきた」「知ったことはただこの国にはお前たちの宗教は所詮、根をおろさぬということだけだ」。パードレはそのことばを否定する。「根をおろさぬのではありませぬ」「根が切りとられたのです」。フェレイラは切り返す、「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が枯れてく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」。遠藤周作の宣教観はあながち間違っているとは思えない。なるほど、140年の宣教の歴史を作ってきた日本に、何百万、何千万というキリスト者がいてもよい筈ではないか。だが依然としてキリスト者人口は増えない。「キリスト教という苗」を、根も葉も腐らせてしまう沼地が日本にはあるからだ。私どもは今日も明日もこの沼地に福音の苗を植えていかねばならない。
◆2.?日本宣教における障害(沼地)
日本の宣教においては、キリスト教に対する否定的なナショナリズムと戦わなければならないことがある。従来から信仰してきた日本の伝統的な宗教は擁護すべきであり、外来宗教は排除しなければならないという意識が未だに大きな力を持っているということである。日本のキリスト教学者として名が知られている森有正氏は、かつて日本の文化は模倣文化(いい意味で)であると言った。このことから日本のキリスト教も日本の国民の感性に、また文化に合うように教えを緩めて日本的にしてしまうところに特徴がある。故に厳格な教理を教えていこうとするキリスト教は当然敬遠されるのである。
また、キリスト教宣教の妨げになるもう一つの要因は、聖日礼拝と重なる日本社会のあらゆる行事である。特に学校における行事(日曜日授業参観、運動会、その他)のゆえに教会学校の子ども達は自由に礼拝を守れず、教会での信仰教育が妨げられること等である。ゆえに日本の社会でのキリスト教伝道はむずかしく、信徒の獲得と増加はほとんど望めないということが出来る。しかしながら、このような悪条件下においてもキリストの霊が働いて下されば、不可能が可能になることが起こることを確信するものである。
日本宣教を志す宣教師・伝道者、日本宣教を志す同志の方々に、日本に長い間住み、福音を宣べ伝えてきた者として、どうしても一言述べておきたいことがある。筆者がこういう提言をするからといって、筆者が日本で、日本人宣教に実績を残したとか、また牧会に成功したということでもない。只一人の平凡な伝道者に過ぎないのだが、日本人伝道に望みを置いている伝道者の中の一人である。先ずご理解を請う次第である。
筆者が望んでいるのは日本人宣教(同胞宣教は勿論だが)である。日本には、宣教の対象となる日本の人々が一億二千万人もいる。これらの人々に宣教したい心は山々であるが、私どもが以前(韓国で)思っていたように、網をおろせばすぐ魚がかかるという奇蹟はなかなか起こらないということである。しかし沼地のような土壌に福音の苗を植え続ければ、聖書(マタイ福音書13章)にあるように良い地に落ちた(生き残った)種は、いつかは実を結ぶことが出来ると信じる。
◆おわりに
イエス・キリストは、日本の国民を愛しておられるゆえ、信仰を持って福音の種を蒔こうではないか。イエス・キリストは種蒔きの教訓で、良い地に落ちた種は「・・・地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」とおっしゃった。従って日本宣教に使命を持っている私どもは、倦むことなく福音の種を蒔こうではないか。