淀橋教会(ウェスレアン・ホーリネス教団)主任牧師、峯野龍弘師のコラム2回目です。
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昨今つくづくと自らの祈り不足を痛感している。祈っていないわけではない。朝ごとの早天祈祷会での祈り、個人的ディボーションの祈り、人々と面談するたびに祈る祈り、連日の各種小集会での祈り、定例祈祷会や毎週の半徹夜祈祷会(ゲッセマネ祷告会と呼んでいる)での祈り等々、祈る機会は数々ある。しかし、これらだけでは何としても祈っていると言うには、おこがましい。いずれかと言えばこれらは皆「お勤め的祈り」に過ぎない。時間を忘れ、時には涙し、うめき、もだえるようにして祈りに打ち込み、長時間かけて病める人々や救いを要する人々のためにとりなしをするような祈りが、今の小僕には決定的に欠如している。
今思うに若き日には、よく山にこもり、父の救いのために、また友人たちの救いのために祈ったものである。あるときは徹夜して、また断食して一人密室に引きこもり祈ったこともある。しかし、今では年に一度か二度、断食聖会なるものを主催したりして祈ることはあっても、自ら一人で断食したり、徹夜したりして祈ることはめったにない。別に怠惰でそうなったわけではないが、何せ中年から老年期を迎える今日(ちなみに先日区役所から介護保険証が送られてきて、やっと自分が老人であることを納得した)までは、何かと聖務(決して雑務ではない)が多く、東奔西走し、激務に明け暮れしていて、じっくり腰を据えて、祈り明かすような日を持つことはできなかった。それゆえその間は短い時間でも寸暇を惜しんでひたすら祈り、主の憐れみと御助けにすがってきたのであったが、今にして思うとよくぞそれでここまでこれたものだと、いたく恥じ入ると共に、主の深い憐れみと御助けに心から感謝している。
マルチン・ルターは、「私には余りにも多くの仕事があるので、一日に三時間祈らなければやっていけない。私がせめて一日二時間祈らなかったら、その日はサタンに勝利を得させてしまう。」といったそうだが、忙しいから祈れないのではなく、忙しいからこそより多く祈ることによって、サタンに勝利しなければならないわけである。
そこでこの老年期を迎えて、今しきりに思うことは、祈りの時間を持てないほどに仕事を抱えるという事は罪悪に等しく、最良の仕事である祈りの聖務を怠ることになるということである。幸い年老いて朝の目覚めが心地よい。願わくは小鳥の目覚めに先駆けて、朝の祈りに沈潜し、祈り不足を克服したい!
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<峯野龍弘牧師プロフィール>
淀橋教会にて牧会の傍ら、94年ビリー・グラハム東京国際大会実行委員長、日本メディア伝道協議会会長、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン総裁、東京大聖書展実務委員長等を歴任。 今年5月には、米アズベリー神学校から名誉神学博士号を授与された。
現在、JEA理事長、ウェスレアン・ホーリネス教団委員長、日本ケズィック・コンベンション中央委員長、特定非営利活動法人ワールド・ビジョン・ジャパン理事長などを務める。国内、海外のキリスト教界のみならず一般社会でも広く講演活動に従事している。