哲学と福音との関係、理性と信仰との関係について、アレキサンドリア学派のクレメンスとラテン学派のテルトゥリアヌスは相反する立場をとった。クレメンスは哲学を福音に至る準備としたが、テルトゥリアヌスは哲学を異端の母と判断した。
パウロとバルナバが福音を伝え形成されたアンテオキア学派は、福音の歴史性およびイエス・キリストの人間性を強調した。この学派の先駆者であるサモサタのパウロはイエスの人間性を強調して次のように述べた。「ナザレ人イエスは油注がれて我が主となられた」。ネストリウスもキリストの人間性を強調し、キリストの人間的な従順さを強調した。「キリストは彼の苦難と彼自身の完全を通して、我々の従順を完全にとりなした」。ここではアンテオキア学派についての説明は省略する。
「私は理解するために信じる。」
ここでは、初代教会に形成された多様な学派の立場を総合的に評価することで一つの包括的な学派を形成したアウグスティヌスの立場を紹介する。
アウグスティヌスは理性と信仰との関係について、最初の段階として、信仰の優位性(priority)を強調した。彼は32歳になるまで、ネオプラトニズムなどの古典的な理性と哲学の方式によって信仰に至ることを試みたが、失敗した。結局、無花果の木の下で魂の深い苦悩を体験する中で「Tolle, lege」(取って読め)と歌う子どもたちの歌声を聞き、新約聖書ローマ書13:13を読んで、キリスト教を信じるに至った。
「遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。」
アウグスティヌスは、理性とは異なる聖書の言葉と聖霊の感動によって信仰に至る、信仰の「優位性」を経験し、これを強調し始めた。
アウグスティヌスは理性と信仰の関係について、二番目に信仰の「理解」を強調した。テルトゥリアヌスが信仰以降の探求は必要ないと主張したことと違い、アウグスティヌスは信仰に至った後にも信仰の条項を理解することを願った。
改宗後、初めての著述「独白録」(Soliloquia)でアウグスティヌスは自身が信じるようになった神を知りたいと告白した。彼は神を呼び求め、真理、知恵、命、善、美、幸福、光、王、父、原因、希望、富、栄誉、故郷、祖国、健康などのあらゆる名詞を総動員させ、自身は正直に言って、神をよく知らないと告白しつつも、次のように神に懇願する。
「あなたに行く道を教えてください。私はあなたに行くことだけを願います。私はあなたのところへ行きます。どのようにして辿り着けるか教えてくださることを懇願します。」(Sol. I5)
「私が祈りの中で語ったすべてを知りたいのです。私は、これらのことを話すことができるでしょうか。私は心で理解したから話したのではありません。様々なところから集め、私の記憶に貯蔵したもの、それによって私はただ信じるようになったと話しただけです。しかし知るということはこれと別です。」(Sol. I8)
結局、アウグスティヌスは知ることを願い、理解することを願った。「私は理解するために信じる。」(I believe in order to understand. Credo ut intelligam)と述べた。信仰の条項を理解するための努力は一生涯続け、その結果、アウグスティヌスによって数多くの神学書が著された。
アウグスティヌスは理性と信仰の関係における三番目の段階として、理性の「限界」を認める一方、古典的な理性を否定する立場を取った。例えば、三位一体の神秘を理解しようとしたが結局理解できなかった。そしてアウグスティヌスはこのように宣言した。「三位一体は人間の理解を超える」(Trinity is beyond human understanding.)。人間自身を否定する勇断は、非常に率直なキリスト者としての勇断であった。
アウグスティヌスの理性と信仰との関係における四番目の段階として、理性を否定する一方、信仰の神秘を理解したいと「渇望」した。信仰の神秘を知り、見て、捉えたいと願う「愛」の「渇望」を抱いた。アウグスティヌスは「神の国」の最後の部分でこう記している。「そこで、我々は、安らぎ見て、見て愛し、愛して賛美するだろう。」(神の国、XXII,30) 彼は出会いによる知、愛による知、終末における知を渇望した。
この記述は、使徒パウロの告白を思わせる。
「その時には、顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(第二コリント13:12)
「悲観的楽観主義」
世俗の文化一般についてのアウグスティヌスの立場も、両面的かつ逆説的、包括的であった。世の文化が罪悪に支配され、堕落し腐敗したという立場はテルトゥリアヌスの立場と同じであった。アウグスティヌスは政治、社会、文化活動や人生自体を悲観的に見た。現世の幸せは、将来得られる幸せと比較した場合、不幸に過ぎないとした。しかし、アウグスティヌスはマニ教的な二元論や反文化的立場を支持したわけではない。
第二のアダムであるイエス・キリストがこの世に生まれ、救いが成就し、人間と自然と文化の回復が始まった。変革の始まりである。福音による人間の変革と文化の変革が始まったことで、世俗の世界は、罪人が一人、二人と神の国の構成員へと変わり、登録が行われる窓口のような場所となった。
従って、アウグスティヌスは、「千年王国」は遠い未来に起こる王国ではなく、今ここで成就される教会時代の王国であると述べた。結局アウグスティヌスにとって世俗と文化一般は、相反・敵対し、罪に定めるべき対象であり、更には、福音化され変革される対象となった。
しかし、世俗と文化は神の国が完成する最後の舞台ではなかった。神の国の完成は終末において、天で成し遂げられる。したがって、世俗と文化は暫定的な過渡期的な意味合いを持つ。
アウグスティヌスの世俗観、文化観には弁証法的な要素があった。完全に悲観視したのではなく、完全に楽観視したのでもない。彼はかつて、世俗の秩序は罪悪の支配を受ける堕落した場所だとする悲観的な実在論者であったが、世俗の秩序の中で神の救いの歴史が部分的に進んでいるという信仰によって、悲観的アウグスティヌスは楽観的アウグスティヌスになったのである。