キリスト教は「神」と「主イエス」という「真実」を追い求める存在であり、これは「文化」という生の本質への探求と同じである。この関係性において、宗教と文化との二元論は存在し得ない。文化とは、キリスト教または宗教の根本的要素が表面化した、言うなれば衣服のようなものだ。文化無きキリスト教は、冷え切った現代社会の中で凍え死んでしまう。
キリスト教の普遍的な主張は、教会建物ではなく、その土台にある歴史的出来事だ。キリスト教が真実を求める声への普遍的応答であり続けるためには、教会は限定された領域だけでなく、生のすべての瞬間、概念、現実に言及するべきではないだろうか。
文化の潮流は、優劣の関係性のなかを行く。現代の優は産業社会だ。劣は、人が産業社会でふと立ち止まって営む実存主義的な思考だ。産業革命以降、人にとって神の存在は技術的、生産的計算上、邪魔になった。人類は神を殺すことを選んだ。人がモノを作り出す工程を築いたことで、産業社会においては人がすべての創造主となった。人は自己をキリストとし、神の国に対する希望を、人類史における平和と正義とにすり替えた。人にとって、人類とは宇宙という機械の歯車のひとつに過ぎなくなった。人は目的達成の手段でしかなくなり、人は生の本来の目的を失った。
このような世界に生きる教会の態度は二極化した。ある教会は、自身を守るために、過去の伝統、慣習、儀式、生活に固執した。同時に、自然を否定する超自然主義的主張が生じ、実存の深みは表面的告白に引き戻された。
他方では、新しい環境に生きるために、環境に自己の本質を惜しみなく適応させた。現代の状況を伝統に根ざしたものとして認識しようとし、真実の世界を初めから指し示していたメッセージを失った。一方このメッセージは、前述の教会が保護した。
教会は、産業社会に生きる人が感じる「生の疑問」に答えを提示する立場にある。伝道を通して、教会が表現しているものこそが答えであると示すべきではないだろうか。
キリスト教は現代に生きる人類が受け入れられない異物ではない。キリスト教は教義や儀式、法律や倫理、哲学といった域を超越した、新しい癒しの知らせだ。
文化における変化は、文化の中心にある「真実の探求」というエネルギーによって引き起こされる。教会はそこに介入し、霊の「優」をもって文化を導く立場にある。
教会は世俗文化に溺れる霊の叫びに耳を傾け、教会が世俗から学ぶべき文化を心に留めるべきではないだろか。同時に、教会は、声の主が誤った道にその足を踏み出しつつあるときには、悪の働きを監視し滅ぼす、社会の保護者的立場にあるのだ。