「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる。』と書いてあるとおりです。」(ローマ書一章十七節 新改訳)
キリスト者の平和はどこから来るのか。キリスト者が求める平和、すなわち人類に必要とされている平和とは、神の恵みから来るものだ。使徒パウロは書簡の中で「恵み」と「平安」という二つの言葉を頻繁に用いた。神の恵みが私たちに来たるとき、私たちは真の平和を経験することが出来る。
日本は安全で平和な国として知られている。最近は治安の悪化やモラルの低下が話題になるが、整備された都市環境や他者への配慮を欠かさぬ高尚な精神は、今なお健在だ。
律法の基本が「他人に危害を加えてはならない」ことだとすると、日本は律法の時代における優等生である。義務を正確に果たし、きれいに手堅く生きたいと願う。他人に面倒をかけることや自分が騒動にまきこまれるようなことは避けたいと思う人も少なくないだろう。贈り物は相手を配慮して、高すぎず安すぎもしない「無難」な品を選んであげる風習も、御礼を受け取れば同等のお返しをするのが筋という認識が双方にあるからであろう。まさに、「目には目を、歯には歯を」の世界だ。
パウロはローマ書で、律法は義であると述べている(十章五節)。律法は神がモーセに授けた十戒を基盤とし、人類の歴史は、十戒によって無法時代から律法時代へと移行していった。
律法によって人類が「盗んではいけない」ということを知ったのは、感謝すべきことである。
しかし、私たちはこの律法の義だけで生きていくことができない。
律法の水準を超えたもうひとつの義として、イエス・キリストによる義があった。それはキリストを信じることで救われることへの信仰であり、私たちはこれを福音と呼ぶ。福音は、全く恵みによって与えられた神からの賜物だ。
イエスはこの恵みの世界を、「一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい」という言葉で教えられた。
与えられた律法だけを見るのではなく、律法を与えてくださった父なる神の心を悟る者でありたい。律法の文字に執着した信仰は、父親が太陽を指差しているのに指先の爪ばかり見つめているほど愚かなことである。知識に依存した信仰も同様で、逐一教えられなかった「新しい」問題に直面すると、混乱に陥るのではないだろうか。
律法は私たちを真理へと導く養育係に過ぎない。私たちは、律法の時代から恵みの時代に達したクリスチャンでありたい。律法時代の優等生である日本は、恵みの時代でも優等生になるべきだ。
「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」(マルコ四章二十七節)
「正しい人はその信仰によって生きる」(ハバクク二章四節)という言葉の意味を、私たちは本当に理解しているだろうか。私たちの命の糧は、自分の行いや知識、思想や哲学ではなく、世を支配する金品でもなく、天から与えられる神の愛と恵み、神の御心を行なうことであるべきではないだろうか。
神の御言葉は地に蒔かれた命の種であり、一度蒔かれると、それは私たちが知らないうちに成長する。神の御国に対する信仰によって、私たちの弱くなった足が強められて、苦しみ疲れている魂に歩み寄りたいと願う。
私たちキリスト者は、自分の信仰が福音の時代にあるかを常に吟味し、祈りと犠牲を捧げる平和の祭壇となろうではないか。未だ律法の時代に生きる日本を福音の時代へと導く使命が、クリスチャンにあるのだ。