作家、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のモデルではないかといわれるキリスト教伝道者、斎藤宗次郎(1877−1968)の自叙伝が来春出版される。岩手県花巻市出身の宋次郎は、内村鑑三に影響され23歳で信仰を持ったクリスチャンだ。自叙伝は、キリストが十字架にかけられたときにつけられた荊(いばら)の冠にちなんで「二荊(にけい)自叙伝」と題された。
当初地元の小学校教諭だった宋次郎はやがて、キリスト教信仰をもち、小学校で聖書や内村鑑三の日露非戦論を教えた。このことが原因で退職を余儀なくされた宋次郎は、早朝の新聞配達を始め、約20年間継続した。自ら「天職」と感じていた新聞配達業に励みつつ、出会った人々の悩みに耳を傾け、地域の人たちから慕われたという。
朝3時に起き、雨の日も風の日も、20キロ以上もある大風呂敷を背負い配達した。当初はキリスト教信者だからと、石を投げられるなど迫害を受けたが、次第に人々の信頼を集めたという。配達業をやめて上京する時は、駅に名士や住民200人以上が見送りに駆けつけたという。こんな姿が「雨ニモマケズ」のモデルでは、と言われるゆえんとなった。 1926年に上京した宋次郎は、内村鑑三の弟子として伝道を手伝い、その最期をみとった。
自叙伝は21歳から死の直前まで書いた膨大な日記を基にまとめ、全40巻。「二荊」とは、荊(いばら)の冠をつけて十字架にかけられたキリストに続き、自分も苦難を引き受けるという意味だ。
今回出版される21年から26年までは、花巻農学校教諭だった賢治と親交を深めたころだ。 今回の編集は、山折哲雄・国際日本文化研究センター所長と栗原敦・実践女子大教授が行った。
山折所長は「宗次郎こそ『雨ニモマケズ』のモデルでは。日記は、鑑三や賢治研究の重要な資料で、時代を知る貴重な証言。再評価すべきだ」と話す。
(情報源:朝日新聞10月16日付)