福音主義信仰に基づく無教会主義を唱え、日本に無教会の基盤を作った内村鑑三が語った福音の意味を黙想し、今日的課題を考える内村鑑三記念キリスト教講演会が25日、今井館聖書講堂(東京・目黒区)にて行われた。内村鑑三が提唱した無教会の考え方に基づき、聖書研究を行う都内の無教会から約110人が参加。講師として千葉眞氏(春風学寮長、国際基督教大学社会科学科教授)と大友浩氏(札幌独立キリスト教会)が招かれ、それぞれ「『日記』から見た内村鑑三」、「信仰の自由と精神の柔構造」と題して講演を行った。講演後には質疑応答の時間を持ち、無教会の在り方や内村鑑三の思想に関する活発な議論が行われた。
最初の講演で千葉眞氏は、内村鑑三の日記を引用しながら内村鑑三の人間性と彼が抱いていた福音主義信仰について説明した。今回は千葉氏の講演の内容を振り返りながら、「内村鑑三」が持っていた福音的思想体系について学んでみたい。
内村鑑三にとって日記とはどのようなものだったのか。彼が書いた日記には初期のものと後期のものがあるが、初期のものは「ジャーナル」的な要素が強い。つまり日記的な要素が強くなっている。一方、後期のものは「ジャーナル」というよりも信仰の記録書としての役割が大きくなっている。さらに後期のものは、いわゆる「ケリグマ(御言葉の伝播)」としての要素よりも「教え」としての要素が強くなっており、「キリストの生にならって生きるにはどうすればよいのか」に関して、当時の時代的な背景や生活状況に照らし合わせて記録されている。
内村鑑三は私生活において至極福音的だったことが日記から判断できる。
まず第一に、「宣教師嫌い」と言われていた内村鑑三は、実は宣教師に対して好意的だったことがわかる。日記には外国人宣教師たちと親しく交わりを持ったことが記録されている。宣教師たちの講演の依頼に応じたほか、彼らのために奉仕やサービス的な仕事をし、様々な面で彼らの教会を助けた。内村自身は無教会主義者であったが、いつも必ず「福音のため」と話しながら奉仕に従事したという。内村は自身のことを「ヨナタン」と自称しており、友情とフレンドシップを重んじていたこともわかっている。
また内村鑑三は「仕事好き」であったことがわかる。内村は仕事の中でも特に聖書研究を楽しんでいた。「人生は悲劇の連続であり、苦しいことが多く楽しいことが少ない」と嘆いた一方で、「感謝がある」と語っている。さらに、「わが休息はイエスキリストを信じること。ここに永遠の安らぎがある」とも語った。また、毎月聖書研究のために4万字を書いたとも言われており、千葉氏はこのような仕事ぶりにを「神業」と賞賛した。内村鑑三は仕事について、「自分が働くのではない。主が働くのだ。自分が働こうとするから疲れる。主に任せるのだ」と説き、「休息の秘訣は主イエスと共にいることだ」と主張した。
日々来客が多かったことも日記に記録されている。毎日5〜6人が内村を訪ねてきたという。中には病を患っている者もいたが、内村はその一人ひとりに丁寧に接し、責任を持って牧会した。ここから「牧会者内村鑑三」の姿が見える。では、内村は多忙な毎日の中でどのように聖書の勉強をしてきたのか。実は、人と会った後の合間に聖書の研究をし、祈り、自分の時間を確保していたのだ。
内村鑑三は無抵抗主義であった。何があっても抵抗せず、全てを神にゆだね、事の成り行きを見守った。暴動に乗り込んで自ら騒ぎを大きくするようなことはしなかった。さらに約束に忠実であったこともわかっている。内村は原稿の締切日に一度も遅れたことがないという。
そのほか、無教会主義を唱えていたにもかかわらず約4000人の弟子たちが内村に従い、彼から聖書を学んだことが日記に記されている。また、「日本にはキリスト教信仰が根付かない」と主張しており、その理由として、「日本は社会的組織の根本において非福音的である」と語っている。また、日本は明治時代に西洋の文明を輸入したが、「キリスト教信仰を抜きにした西洋文明」を導入しようとしたために腐敗したとも話している。しかし一方では、「キリストの福音を宣(の)べ伝えれば日本は再び復活する」とも話している。
また、韓国のクリスチャンたちを賞賛し、彼らに対して好意を示したことも書かれている。内村は韓国人のクリスチャンたちを「キリストにあって真の兄弟」と賞しており、「自分を理解してくれるのは朝鮮人だけかもしれない」と語っている。「日本人以上の信仰を持つ」とも話しているという。
千葉氏はさらに、内村鑑三の後期の日記に触れ、彼がどのような信仰体系を持っていたのかについて説明した。
内村鑑三は徹底した聖霊主義を唱えた。「救済とは、人力(ヒューマニズム)によらず、神によってのみ為される」と説いたほか、「神の最高の賜物は聖霊であり、聖霊は人の霊に同化し、人と共に働く」と語った。さらに再臨信仰を唱え、終末論に対する明確な見解を持っていた。また、縦の軸を霊的な次元(福音的な次元)、横の軸を肉的な次元とし、「縦によって横を聖化する」という十字架信仰を唱えた。内村はキリスト教のことを「十字架教」とも呼んでいる。
では、内村鑑三の終末思想とはどのようなものであったのか。彼は、「今世界が終末に近づいており、やがて滅びて破滅する」と説く一方で、「聖書が語る終末は滅びではなく、新天新地である」とも語っている。そして終末はキリストの再臨によってもたらされるとし、平和の実現は人類の力によるものではなく、キリストの力によって成し遂げられると説いた。また、「裁きと破滅の後にはキリストによる宇宙的な救いが成し遂げられる」と主張し、世界的な平和にとどまらずに宇宙的な救いを訴えた。
さらにいうならば、内村が唱えた再臨信仰とは聖霊信仰である。つまり、終末論的贖罪論を唱えた内村鑑三は、「終末の時にキリストが聖霊となって再臨して、こころの変化と実在の変化を行い、信徒たちの心の中に新世界が訪れる」と説いた。
無教会主義の内村鑑三も世界宣教に対するビジョンを抱いていた。内村は、世界、アジア、中国の宣教を構想していたことが日記からわかっている。彼が特に力を入れようとしたのが中国伝道とシナ伝道だ。実際に宣教のために資金を集め、自分の弟子を派遣しようとしている。内村が描いた伝道のビジョンは、当時の日本の戦略戦争と深いかかわりを持っている。内村は武力ではなく、キリストの愛によってのみ敵地に好意的に入ることができるという考えを持っていた。また、自身について、「日本人であるが東亜人になった感じがする」と語っており、東アジアに対する宣教のビジョンが強くあったようだ。内村の東亜構想とは、「日本人が東アジアに仕えて奉仕することで、東アジアを愛するべきだ」というものであった。
一方、愛国心について内村は絶望に近い思いを抱いていた。「イエスは私を世界人にしようとするが、日本は私を愛国者にしようとした」と語っており、愛国心を妄想として退けようとした。そのうえで、「愛国心とは世界平和と宇宙の大原則に対する普遍性を持つ、極めて開かれたものでなければならない」と述べ、「普遍性を求める愛国心」を訴えた。つまり、他国と世界の平和を求める「開かれた愛国心」を持つことが大切だと説いた。
結論として千葉氏は、「時代の過渡期にいる今、内村鑑三の思想にならい、終末論的に生きる必要がある」と話した。また、「やがて物質文明の崩壊を乗り越えるための霊と精神のルネッサンスが来る」と告げ、そのときのために内村鑑三の著作を世界各国の言語に翻訳し、出版したいとの夢とビジョンを掲げた。
次回は大友浩氏の講演の詳細について紹介したい。