ジョナサン・エドワーズ、祖父スタッダードからの提案を拒否
スタッダードは信仰の在り方について腑に落ちない点があった。ニューイングランドのピューリタンたちは契約神学(Covenant Theology)を学んでいた。簡単に言えば、全人類の平和を求めて神に忠誠を誓う人々の集まりであれば、集会や教会を形成することができるとする教理だ。所属信徒となるためには、自分の経験した恵みと回心を口で告白しなくてはならない。スタッダードの悩みは、この契約神学についてのものだった。
ピューリタニズムほど、恐怖・疑惑・絶望の問題に関心を寄せた宗教活動は無いし、内面生活の葛藤をそれほど綿密に叙述する宗教活動も無いと言われる。ピューリタンたちは、膨大な量の日記を付けたが、そのほとんどは、じぶんの信仰に関する疑念の克服や自己省察に向けられていた。
とくに、聖職者たちによって、あらかじめ記述されたうえで語られる説教は、週日、人びとを地獄の業火に投げ入れ続けた。彼らは、ジェレミア(エレミア)とその民に起きた過去の実際の出来事が預言となって、じぶんたちにも同じ事態が発生したと仮想した。ジェレミアの嘆きを引き起こした原因は、捕囚が現実に起きたためだが、アメリカン・ピューリタンは、起こるかもしれない堕罪を現実と仮想して嘆いたと言ってよいだろう。したがって、この嘆きは、人びとへの威嚇として機狽キる。これが、ピュータンのレトリックであった。
ニューイングランドに定住したピューリタン信徒たちはやがて結婚し、子が産まれ、そして孫が産まれる。彼ら2世、3世の世代に対して、教会はどういう認識を持つべきなのだろうか。彼らは主による恵みを経験したのだろうか。彼らは「契約神学」に基づいた「教会」の定義内に含まれるのだろうか。
1662年、リチャード・マターはマサチューセッツ大法廷の宗教会議でひとつの解決策を提案した。彼の案によると、ピューリタンの子どもたちは洗礼を受けることができるが、主の晩餐に参加することができるのは14歳以上で、自らの信仰告白をした者だけとした。礼拝に参加していても、信仰告白無しには、パンと杯の儀式に参加することは許されないとした。これが「半途契約」(Walfway Covenant)である。
このような動きが見られるようになったのも、最初、ニューイングランドの教会員(組合員)は全て主の晩餐に参加したが、1660年頃から、この参加者が著しく数を減らし始めたからであった。マターの主張では、信徒の子どもたちは約束の地に生まれた子であり、その中は信仰が存在するとしたのである。
当時マサチューセッツ州ノーザンプトンで牧会奉仕をしていたスタッダードは、マターによ半途契約の実効性に疑問を持った。半途契約の定義によると、特定の知識と救いの確信にいたるまで、人は主の晩餐に預かることができないというのだ。さらに、この知識に至らない者が聖餐に参加することは、主への冒涜であるとした。しかし、これまでのピューリタニズムの考えでは、永遠の救いに完全に確信できる者は一人も存在し得ないとしていた。つまり半途契約が信徒に要求するものこそ、ピューリタンが誰も成し得ないとしていたものであった。永遠の救いを誰一人確信することができないとしたら、誰がその救いを宣言することができるというのか。
スタッダードはマターの解決策の代わりに、教会に通っていてパンと杯の儀式に参加したいと望む者であれば、たとえ救いの確信に至っていなくても、聖餐への参加を許可することにした。スタッダードは、もし彼らが救いを得ていないとしても、パンと杯によって恵みと確信を次第に感じるようになれるのではと考えたのだ。つまり、主の晩餐をふくむ教会のあらゆる儀式を「回心の機会をもたらす儀式」とみなし、心の変化を前提とするものから、心の変化をもたらすものへと改変したのである。この日、1677年11月5日、彼はこの新案を採用した。
スタッダードの定義は多くの人に影響を与え、マサチューセッツ州西部の牧師や指導者たちに広く受け入れられた。ほとんどの人がスタッダードに賛同する中、たった一人だけ反対する者があった。皮肉なことに、それはスタッダードの孫、ジョナサン・エドワーズであった。ノーザンプトンの教会の指導者を祖父に持つジョナサンは、祖父の提案する開放的な教会を良しとしなかった。ジョナサンは、植民地社会が発展し物質的にも豊かになるにつれ、ピューリタンたちから神に対する絶対的信仰と誇りが失われつつあることを感じていた。正統派カルヴィニズムを回復させようとしたジョナサンは、スタッダードの定義を拒絶した。2年間にわたる激しい論争の後、1750年6月22日、ジョナサンは聖職剥奪と同時に、ノーザンプトンの教会から追放された。
参考文献 H. N. Gardiner, "Selected Sermons of Jonathan Edwards," New York, 1904, p.xii