人の前に立ち、何かを指導する人は何かにつけて厳しい目で見られ、攻撃されやすい立場となる。あなたの決定に対して、その結果が良くなかったことを受け、攻撃してくる人も多くいるだろう。さらにはそれに付け込んで責任転嫁をしてくる人もいる。しかしながら、あなたを攻撃する人たちの中で、まともな攻撃をする人はあまりいない(多くの人々は虚偽の内容や誤解をもって攻撃してくるものである)。
たとえば、数週間前に、ある人がブログで私のことを「偽善者」であると記述し、それがインターネットを通して公に目につくこととなった。正直な話、私はその書き込みを見て心の動揺を隠せなくなった。このような書き込みに対し、優しさと相手に対する思いやりをもって対応することに対して、試みを受けてしまったのである。
人々の攻撃を受けるとき、私は常に三つの偉大な真理を思い出すようにしている。これについて以前学んだのであるが、今も復習し、学び続けている。
1.攻撃は避けることができない。イエスキリストご自身がこの様に言われたからである。
「つまずきを与えるこの世は忌まわしいものです。つまずきが起こることは避けられないが、つまずきをもたらす者は忌まわしいものです(マタイ18:7)。」
「忌まわしい」という言葉は「嘆かわしい・嫌な・不祥事」などの意味が込められている。他人から攻撃されたことがある人は皆この「忌まわしい」という言葉を自分事としてよく理解することができるだろう。私の経験からすると、この問題は年をとるとともにより対応が難しくなってきたといえる。
イエスはしかし「つまずきが起こることは避けられない」とも述べている。人々は私たちの行いに対して罪を指摘したり、あるいは行わなかったことに関する怠慢の罪を指摘したりもする。どちらにしろ人生というものは私たちに避けられない「攻撃される」という試練を与えるものなのである。
人から攻撃されることは、何かをやろうとするときに避けられないものであるとして、イエスは攻撃する人をそのままにさせておくとは述べていない。彼らもまた批判することへの説明責任を負っており、彼らの立場それぞれのレベルでの「忌まわしき」体験をすることになるのである。
2. 攻撃されることは私たちにとって役に立つことである。
攻撃されている最中にあってこのように思うのは難しいだろう。攻撃されている最中にあって、神様がより大きな目的を持たれていることを心に覚え、その過程から何か良いものが生じると信じることは難しい。しかし聖書に書かれている次の2か所を見てみることにしよう。
父に愛されていたヨセフはその兄弟たちによって嘲られ、誘拐され、奴隷として売られた。さらに貴婦人である他人の妻と不適切な行為をしようとしたとして虚偽の訴えを受け、牢に入れられそこで数年間を過ごした。彼の汚名がそそがれるまで数年を要した。
ヨセフは兄弟たちに大きな恨みを持ち得ただろう。数年後、兄弟たちと再会することになったとき、ヨセフはエジプトで絶大な権力を得ていた。兄弟たちに復讐することなど簡単にできたであろう。しかしヨセフは彼らに対し「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした(創世記50:19-20)」と述べたのである。
ダビデ王を見ても、彼は老齢になって息子の一人であるアブシャロムが反逆するという困難に直面した。またシムイというサウルの家の一族のひとりから、突然石を投げられ、呪いの言葉を受けることもあった。
―シムイはのろってこう言った。「出て行け、出て行け。血まみれの男、よこしまな者。主がサウルの家のすべての血をおまえに報いたのだ。サウルに代わって王となったおまえに。主はおまえの息子アブシャロムの手に王位を渡した。今、おまえはわざわいに会うのだ。おまえは血まみれの男だから。
すると、ツェルヤの子アビシャイが王に言った。「この死に犬めが、王さまをのろってよいものですか。行って、あの首をはねさせてください。」
王は言った。「ツェルヤの子らよ。これは私のことで、あなたがたには、かかわりのないことだ。彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ。』と言われたからだ。だれが彼に、『おまえはどうしてこういうことをするのだ。』と言えようか。」ダビデはアビシャイと彼のすべての家来たちに言った。「見よ。私の身から出た私の子さえ、私のいのちをねらっている。今、このベニヤミン人としては、なおさらのことだ。ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから。たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう(2サムエル16:7-12)。―
私たちを攻撃する人たちに対し、憤慨することは容易である。しかし彼らを通して神様が私たちに対する深い重要な目的を試されておられるのだとしたらどうだろう。ローマ書8章28節には、「愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」と書かれている。
3.攻撃される人生は一つの生き方である。すべての指導者は以下の聖句を覚えるべきである。
人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである(箴言19:11)。
怒りを公的に露わにした発言をするには、ある程度の時間が必要である。パウロ使徒は「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません(エペソ4:26)」と述べている。怒りという感情は何か間違ったことが行われた際には、正当な反応である。しかしこの怒りの感情は相手に害をもたらすだけでなく、私たち自身にも害をもたらすものへとすぐに変化し得るので注意が必要である。ヤコブ使徒は「愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。人の怒りは、神の義を実現するものではありません(ヤコブ1:19-20)」と警告している。
私の知る偉大な指導者たちは簡単には怒らない。その代わり、彼らは攻撃されてもそれを見て見ぬふりをする習慣があり、より高い道筋を立てて攻撃する人たちに攻撃する機会を与えながらも己の道を進んでいるのである。
(本コラムは米クリスチャンポストから翻訳しています)トーマス・ネルソンCEO マイケル・ハイアット氏
トーマス・ネルソンは世界最大のキリスト教書籍出版会社である。米国内では書籍出版貿易で第7位となっている。同氏のブログ(http://michaelhyatt.com)、指導者として必要な福音的思考法やウェブサイトによる効果的なビジネス法、出版業界に関するトレンドなどを紹介している。