幼児の時、母親が私を連れて自殺しようとした事を、かすかに覚えています。それによって私は自殺願望を持つようになり、高校生の頃から死の不安の中におりました。
大学に入るために上京した最初の日曜日、朝ジョギングをしている間に見た教会の10時の礼拝に座っていました。導かれたのです。18歳で洗礼を受けても自殺への不安は去らず、19歳の6月、ボーっと線路を歩いて電車を止めてしまいました。このままでは死んでしまうと思って西に向かって歩き始め、滋賀県でお金がなくなり、そこでアルバイトをしたのです。そのアルバイト先で、私は私の人生における希望に出会いました。
まず、会社の陸上部の駅伝の付添に行き、4区の本条さんの体調が悪くなり、代わりに走ったことで、走ることに目覚めました。カウンセリングにもそこで出会ったのです。中卒で企業内高校に通いながら働いている方々が900人くらいいて、その方々の話を聞くことが多かったのです。すると工場長が「君が話を聞くとみんな元気になるから、聞いてあげてくれ。手当てを出すから」ということで、そこでアルバイトをしている間、若い人たちの話を聞きました。それが今で言うカウンセリングなのです。
でもそれは一時の幻であり、私はまた旅立ちました。希望は与えられても試練に会う。停滞するという事です。日本中をリヤカーを引いて歩いて、旅から帰ったのは2年半後でした。YMCAの社会活動に入って、それから外資系の営業マンになりました。非常に過酷で、ビジネスを取るか、妻を取るか。私は愚かにもビジネスを取ってしまい、最初の結婚は離婚になりました。ビジネスは大成功で、週刊誌に載ったり、商工会議所の講師もしました。絶頂でした。
私の証しは、平野先生(東京ホライズンチャペル牧師)の『希望物語』の本にそっくりです。この本を読んだ時、私の人生だと思いました。希望は与えられるものである、希望はテストされる、希望は停滞する。。。
希望はテストされるということですが、私は7000人くらいの会社で44歳にして次期社長というところまで行ったのです。ところが、私は末期ガンで余命3ヶ月になってしまいました。たくさんの方々が祈って下さったのですが、手術もできなかった体が1年後に手術できるようになり、胃と十二指腸を全摘、腸を2メートル取りました。肝臓にも転移していましたが、胃の手術から回復して、1年経って元気だったら、肝臓の手術をしましょうと言われたのです。でも1年経ったら肝臓のガンが消えていました。
ガンの手術をして退院の前日、私は会社をクビになりました。改革に次ぐ改革で昇進したのですが、古い体質の人々は、私が病気だからこれ幸い。出て来ないうちに辞めさせようというわけで、退院の前の日、1991年9月7日18時15分の電話で解任の手続きをもらいました。どうしていいかわかりません。お金はないし、仕事はないし、からだは1年もつかどうか。この1年の間をどうしようかと思って、私はみんなに別れを告げて、ゆっくりして療養しようと思って鹿児島に1年いたのです。
その1年の間に、私はまた希望を与えられたのです。絶望状態で、川崎から宮崎の日向に向かう沿海フェリーに車1台載せて、もう東京に帰ってくることはないと、川崎の光、東京湾の光がキラキラするのを見ながら泣きました。1年後には自分は死ぬだろうから・・・。その翌年6月、朝4時45分、南日本放送の「まことの救い」というラジオ放送が流れてきたのです。松山の万代恒雄牧師の放送です。万代先生には以前面識があったのですが、その時だけはピッと感じるものがあり、すぐ電話をかけて「これから松山に行きます」と言ったら、「3日後に鹿児島に行くから集会に来なさい」と言われ、そこに行きました。「お前証ししろ。このままでは太平洋に流れて死ぬ運命だから、神様に祈って救ってもらえ」と言われ、それから信仰に忠実に生きるようになりました。
そして鹿児島にいる間に仁美さんに再会しました。以前にも知っていたのですが、誰にも言わないで鹿児島に行ったので、知っている人達はみな私が死んだと思っていたのです。鹿児島のレストランで偶然に会って、結婚することになりました。プロポーズの言葉は「半年経って再発しなければ結婚してくれ」というものでした。仁美さんはその時にアメリカに留学して、多分大学の先生になるためにもう一度勉強しようとしていたのです。それをやめて結婚してくれたので、ずっと負い目を持っています。
結婚して鹿児島から東京に帰って、カウンセリング本業で行こうということで、牧場で癒しながら、お医者さんなども来てくれるような大きな牧場を作ろうと、山梨へ移って働き始めました。その間に万代恒雄先生は昇天されて、私の信仰も少しぐらつき、教会から離れるようになったのです。山梨の教会を訪ねたのですが、本当に付いて行くという教会にはなかなか巡り合わないでいました。
そんな時、浅草のホープ教会の西田先生が平野先生のビデオを送って下さいました。「あ、この先生のところに行きたい」と思って、山梨から町田に通いました。通っていたらとても間に合わないので、東京に引っ越して来ました。平野先生の説教を毎週聞きたいので、事務所も住まいも東京に引っ越しました。そして町田の教会に通うことになったのですが、絶望の時こそ希望が与えられるということで、私は希望が与えられました。そして平野先生のもとでもう10年以上過ぎて、私は信仰生活を守ることができているのです。(続く)
NPOファミリーカウンセリングサービス指導カウンセラー、東京ホライズンチャペル教会員・荒木次也