「主は悪魔の試みに会われた」(ルカ4・1〜14)
寒中に入り寒い毎日です。昨夏の酷暑はどこに行ったかと思う程の大雪と酷寒です。イエス様がバプテスマの後、40日断食された荒野も自然の過酷な地でした。私もかつて聖地でイスラエル人のガイドと荒野をトレッキングしましたが、自然の厳しさに慄然としたものです。
さて、聖霊に満ちていたイエス様を悪魔は巧妙に試みます。試みとはヘブライ語ではマッサー、ギリシヤ語ではペイラスモスですが、特に「主の祈り」を弟子達に教える時に主は「試み(ペイラスモス)に会わせず悪より救い出し給え」と、毎日、継続的にこうした祈りをするようにラビとして申し渡しています。試みが神からのものか、悪魔からのものか、私たちは真贋(しんがん)を注意深く見極めなければならない事が信仰生活でたびたび起こってきます。悪魔は日夜、私たちの大丈夫なところ、弱いところをチェックしているようです。
ニュースで有名人が、スキャンダル報道されることがあります。オレオレ詐欺や振込詐欺、投資詐欺の詐欺師たちの親切に騙される人が後を絶ちません。キリスト教界も決して例外ではありません。悪魔の試みは、クリスチャンが、巧妙に仕掛けられた罠にはまって神の御旨を疑い、信仰までなくしてしまうレベルの油断出来ないものもあることが、このイエス様への誘惑からも理解出来ます。
悪魔は、イエス様の40日の断食期間ずっと誘惑を掛け続けてきましたが、断食終了後にご承知の3つの誘惑を仕掛けてきました。イエス様は旧約聖書(律法=モーセ五書=トーラーを指す)のみことばをもってことごとく退けてしまわれました。12歳の時にエルサレムの神殿域で、教師たちの真ん中に座って、みことば問答をされていたことがルカ2章に母マリアの記憶としてルカが記しているほどトーラーに精通されていたのです。仏教で峻厳な山野を駆けめぐる千日業の荒行修行僧とは本質的に異なるイエス様の荒野の断食でした。
私の大先輩の故・唐川利江牧師がかつて北海道の岩内町山中で40日間の水だけの断食をされたことがあります。しかしその後、同師はその断食を誇るのでもなく淡々として札幌でご奉仕され続けましたが、明らかにルカ4章14節の「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた・・・」というような霊的な雰囲気を同師は漂わせていました。
今の時代にそうした雰囲気を醸し出す人を見出すことは難しいかもしれません。イエス様はその公生涯の間、弟子達に極端な修養鍛錬を強要されるようなことはなされなかったようですが、但し、弟子達に期待されていることがあります。つまり「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」(マタイ10・38)。悪魔が成し遂げられなかった事、それは十字架です。主はこれを日々、負う(ギリシヤ語:アラトー)ことを私たちに望まれています。
現代でも、試み(誘惑)は本質的にイエス様の時代と大差ありません。「誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた」(ルカ4:13)に過ぎないと記されているのですから、私たちも、自重して克つ慎重に日々の信仰生活を歩むことは大切なことです。
田中時雄(たなか・ときお):1953年、北海道に生まれる。基督聖協団聖書学院卒。現在、基督聖協団理事、宮城聖書教会牧師。過疎地伝道に重荷を負い、南三陸一帯の農村・漁村伝道に励んでいる。イスラエル民族の救いを祈り続け、超教派の働きにも協力している。