私たちが問題に直面した時になすべきことは、問題をどのように解決しようかと心配しないで、主が必ず解決してくださると信頼することです。
ある時、大きな国際的なプロジェクトに関する法律調査を頼まれました。そのプロジェクトがほぼ最終段階にきた時に、一部の作業をある海洋の公海上ですることになっていましたが、弁護士に一応確認しておいた方がよいだろうということになり、大至急調査を依頼されたのです。早速調査をして、「公海上のことなので、国際法上は何ら問題はない」という結論に達しました。
しかし、念のため最も近くにある独立島国の法律を調べてみることにしました。けれども、当時その国は独立して間もない時でしたから、法律も整備しておらず、何もわかりません。そこで、かつてその地域を信託統治していた国の日本にある駐在大使館に、内密にすることを条件にして電話で問い合わせたところ、親切にもすぐに本国に連絡して調べてくれるとのことでした。
しばらく待っても返事がこないのでおかしいなと思っていたところに、依頼会社から連絡がありました。「突然、外務省から作業中止の要請がきて、とんでもないことになってしまった」というのです。驚いて事情を調べてみると、調査をしてくれた国の担当官が、日本政府からの問い合わせと勘違いして、その国にある日本大使館に「法的には何ら問題ないと思う」という回答を連絡したのです。
それを知った日本大使館から外務省に電報が入って、「当該国家と日本国との間には別件でかつて外交上のトラブルがあったので、たとえ法律上の問題はなくても、本件作業をやめさせて欲しい」と強い要請があったようです。そして外務省から当該プロジェクトを監督していた官庁に作業中止要請が出たのです。
依頼会社としては、もしその作業を中止すればすでに巨額の資金を投入したプロジェクト全体を中止しなければならないため、一大パニックに陥ってしまいました。私は何度も依頼会社と監督官庁に呼び出されて事情の説明を求められました。しかし、いくら事情を説明しても、それで事態が改善するわけではありません。法的には責任がないとしても、この大問題の原因となったのは、私です。
この試練の中で、私は心配のあまり、何週間もほとんど眠れない日が続きました。自分の知恵と力ではどうがんばっても絶対に解決できない重大問題が、重く肩にのしかかってきて、押しつぶされそうになっていました。食事も喉を通らず、呼吸をするのも苦しいほどでした。一日中その問題が頭を離れません。状況は日毎に悪くなっていくように思われます。
そんなある夜、眠れないまま、わらをも掴む思いで聖書を読んでいた時に、「主に信頼する者は安らかである」という箴言29章25節のみことばが、スッと心の中に入ってきたのです。「アレッ! 私は全知全能の神を信じているクリスチャンではないか。それなのに毎晩眠れないほど心配して、悩み苦しんでいる。何かおかしいぞ。聖書には、『主に信頼する者は安らかである』と書かれているではないか」と思いました。
そしてすぐに祈りました。「天のお父さま、私はクリスチャンでありながら、あなたを完全には信頼していませんでした。そして、この問題に悩み苦しみ続けてきました。どうか、この愚かな者を赦してください。主よ、あなたを100%信頼いたします。すべてを心からあなたにお委ねいたします。どうか、このみことばどおりに、私を安らかにしてください。
そう祈った途端に、まさに天から「主の平安」がやって来ました。アッという間に、私は「主の平安」に包まれていました。ちょうど、「主の平安」という透明のカプセルの中に入れられたような気がしました。それまで私を押しつぶそうとしていた大問題が、カプセルの外に、大きく見えるのですが、全然重くありません。非常に不思議な感じでした。私はその問題発生後、初めて平安を得て、主に感謝する間もなく、そのまま眠ってしまいました。そして翌朝からは正常に生活できるようになったのです。
この問題が主によって最終的に解決されるまで、4ヶ月ほどかかりましたが、主に信頼して、毎日関係者の皆さんの平安と、問題の適正な解決を祈りました。いくつか私のなすべきことが示されて、それを実行することができました。その間ずっと、「主の平安」が私を守ってくださいました。そして、そのプロジェクトの期限最後の土壇場で外務省が譲歩して、作業が実行されたのです。新聞等で大きく報道されたにもかかわらず、問題の島国からはなんらのクレームもつきませんでした。
その後、何度もさまざまな問題にぶつかってきましたが、その都度、このみことばによって支えられてきました。
この大きな試練をとおして、私は、「信頼」することによって、「心配」することから解放されるということを体験しました。「信頼」と「心配」の違いは、まさに「天」と「地」の違いです。
なぜなら、ここで「信頼」するとは、「主」をすなわち「天の父」を、信じ頼ることです。「心配」するとは、「世」にすなわち「地上のこと」に、心を配ることです。ですから、「天」と「地」の違いになるのです。
ペテロは次のように言っています。
神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。(1ペテロ5:7)
イエス・キリストは、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)と、私たちがこの世のことを「心配」しないで、神とキリストを「信頼」するように言っておられます。そうすれば、人知をはるかに超越する「神の平安」によって守られるのです(ピリピ4:7)。
佐々木満男(ささき・みつお):弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。