あなたがたはわたしの証人である。(イザヤ43:10、12)
1.証しをすることへの恐れ
私が救われた当時を振り返ってみますと、キリストを信じる過程において、クリスチャンの方々の証しに最も強く影響されたと思います。なぜなら、聖書は難解で何度読んでもよくわかりません。キリスト教神学や教理等にはあまり興味が湧きません。けれども、キリストを信じている方々が、明るく生き生きとしている様子を見て、「私もあのようになりたい」と強く願うようになりました。
クリスチャンの方々の証しを聞いたり、読んだりして、「あの人たちが、あれほど言っているのだから、キリストが神の御子であり、救い主であることに間違いはないだろう」と思いました。そして、聖書を読んでいくうちに、聖霊の働きにより、みことばの真理が明らかにされてきて、自分の罪を自覚して、イエス・キリストの十字架の犠牲の死と復活の霊的意義を悟ることができました。イエス・キリストの救いを信じ、キリストを受け入れることができたのです。
ところが、キリストのすばらしい証しをする方々を見て、励まされると同時に、「クリスチャンになるのはよいが、証しだけはどうしてもやりたくない」という思いが強く働いていました。「キリストの証しをしたくない」という消極的な思いは、信仰を持ってからも続いていました。人々の評価や批判を気にしていたのです。
キリスト教と全く無縁の環境で生まれ育ち、生活してきたこと、信仰が弱く、キリストによる救いの喜びが小さかったことも、消極的であったことの原因ですが、証しをする勇気に欠けていたことが最大の原因でした。神は、私に「力と愛と思慮分別の霊」を下さったのに、私は「臆病の霊」に囚われていたのです(2テモテ1:7)。
2.証しへの導き
そのようなわけで、信仰が与えられてからも、証しをさせられないように、集会でもなるべくおとなしくして、目立たないようにしていました。ところが、いつまでも逃げていることもできません。そのうちに断り切れず、段々と証しをするようになりました。私は、生まれつき口下手のため、初めの頃は、証しをする都度、言うべきことを言い忘れたり、言うべきでないことを話してしまうことがよくありました。これを反省して、証しを頼まれた時は前もって、証しの原稿をきちんと作るようになったのです。
ある時、「あらゆる問題を解決する秘訣」というタイトルで私の信仰の証しをしました。証しをした後で、その原稿に手を加え、これをワープロで打ってもらって集会の参加者に配布したところ、大変喜ばれました。さらに、その文書を集会に参加できなかった方々や、友人・知人に配布したら、これも喜ばれました。私の書いた証しを読んでキリストを信じる決心をする方も出てきたのは驚きました。それからというもの、教会や集会で証しをする時はできる限り、それを文書にして配布することにしています。
3.証しの力
聖書のみことばをもって、宇宙・自然の万象をもって、人類の歴史をもって、神はご自身を証ししておられます。何よりも、イエス・キリストの十字架の死と三日後の復活によって、神はご自身のアガペーの愛を証しされました。これが神の福音です。私たちは、このキリストの福音を信じて救われました。
神は、福音を信じて救われた私たちに、聖霊を注いで力を与え、地の果てにまでキリストの福音の証人としてお遣しになります(使徒の働き1:8)。神は人々に福音を伝えるために、信じた者たちを証人として用いるという方法をおとりになりました。言い換えれば、信じた者たちに聖霊が働かれて、他の人々が「イエスは主である」と告白するように導いておられるのです(1コリント12:13)。
ですから、私たちがキリストを証しする時に、真に証しをするのは私たちではなく、私たちに働いておられる聖霊さまご自身なのです。聖霊の力は、すなわち全能者である神の力ですから、世のいかなる力もこれに対抗することはできないはずです。
それなのになぜ証しをすることを恐れるのでしょうか。なぜ証しをしてもその力が弱いのでしょうか。それは自分の力で証しをしようとするからです。肉の力で証しをするからです。私は最近になってようやく、このことが判ってきました。イエスさまと生活と行動を共にし、一番信頼されていた弟子のペテロでさえも、いざとなったら「イエスなど全く知らない」と、三度もイエスさまを否んでしまいました。しかし、キリストの復活・昇天後に聖霊の力を受けた弟子たちの目覚しい証しが、聖書の「使徒の働き」に詳しく書かれていることは、ご存知のとおりです。
4.キリストの証人
私は、クリスチャンの方々に会う度に、「ぜひキリストの証しを書いて下さい」とお願いしています。なぜなら、神さまが「あなたがたはわたしの証人である」(イザヤ43:10、12)と言っておられるからです。証人の役目は何でしょうか。言うまでもなく、証言をすることです。私たちは、キリストの証人として、すべての人々にキリストのすばらしさを証言をするように、神さまから求められているのです。
「証しをすると自分を誇ることになるので、やりたくない」と言う方がいます。また、「キリスト、キリストと言ってキリストの証しをすると、創価学会やエホバの証人のようにかえって反発を招いてしまう。何も言わないで、善いことをしていくうちに自然にクリスチャンであることが判っていくのが、一番良い証しである」というような意見を聞きます。私も以前はそのように考えていました。
しかし、まず、証しをするのは自分のことではなく、キリストのことです(2コリント4:5)。「キリストはいかにすばらしいお方であるか」そして「キリストは私にどのようなすばらしいことをしてくださったか」を証言するのです。誇るとすれば、自分ではなく、キリストを誇るのです。
次に、私たちは、善い行いをするように、神によって造られています(エペソ2:10)。クリスチャンが善いことをするのは当然のことです(ローマ12:17、21)。それによって、神の栄光が現され、神が崇められることになります。けれども、イエスさまは、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)と言われました。
神は、宣教という方法を通して、みことば(キリストの福音)を明らかにされました(テトス1:3)。すなわち、神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです(2コリント1:21)。宣教とは、聖書のみことばによって、キリストについて聞いたこと、知ったこと、信じたこと、体験したことを証し(証言)することです。特に、キリストの十字架の死と復活が、私たちの人生に、いかに決定的な意味をもっているのかを、証しすることです。キリストの証しがなされなければ、クリスチャンがただ善いことをしているだけでは、人々の魂は救われない、ということです。
日本には、数百年に及ぶ時の権力による徹底的迫害・弾圧を逃れるための、「隠れキリシタン」の伝統があります。また仏教の「自然に流されていく諦観思想」、儒教の「謙譲の美徳」の文化があります。往々にして、これらの伝統や文化が、本当は勇気がないために「キリストの証人として立つ」ことを避けようとする「隠れ蓑」になっていることがあるのではないでしょうか。かつての私がまさにそうでした。しかし、私たちが勇気を持って、聖霊の力によってキリストの証しをしていかなければ、多くの人々がキリスト以外の証しに惑わされて、異なる方向へと導かれていってしまうのではないでしょうか。
5.証しの前進・拡大
神のみことば(キリストの福音)は、あらゆる方法、手段によって伝えられていますが、文書(文字)による伝道方法は最も有力な手段の一つです。これはみことばが聖書という文書(文字)に書かれていることからも明らかです。
今は、ワープロやパソコン、コピー機、印刷機などが発達しています。手書きの証しも十分用いることができますが、自分でワープロ、パソコンに打ち込んだり、友人や町の印刷屋さんに頼んでも、簡単に文書化(文字化)できる時代です。それを送信したり、コピーしたり、印刷して配布すれば、多くの方々に神のみことばを届けることができます。
ひとつの証しが文書化(文字化)されることによって、主ご自身のお力によって、その証しがどんどん前進し、拡大していくことを見るようになります。
私の場合は、自分の証しが予想をはるかに超えて拡がっていきました。「ライフ・ライン」や「ハーベスト・タイム」というテレビ番組に出演することになったり、「人生の転機」や「ビジネスマン・壮年者伝道ハンドブック」という本の一部に掲載されたり、大型トラクト「ニューライフ」や「クリスチャン新聞福音版」「週刊法律新聞」に載ったり、月刊誌「恵みの雨」、「サイト」や週刊新聞「東大新報」に連載されるようになりました。
文書化(文字化)された証しは、電子メールによってボタンひとつで、世界中にいる大勢の方々に瞬時に送ることができます。受信した方は、これをプリントアウトしたり、さらに他の方々に転送することができます。また、証しをホームページに載せることによって、興味ある方は、誰でも、いつでも、インターネットを通じて簡単にアクセスすることができるようになりました。
日本中のクリスチャンが、救いの証しやこれまで体験してきた数々の恵みの証しを、このようににして配布・送信・公開していったら、日本はすみやかにキリストの国へと変えられていくと信じます。証しにはそれだけの力があります。なぜなら、キリストの証しは人の力によるものではなく、聖霊の力によるものだからです。
証しの文書(文字)を(必要ならば外国語に翻訳して)さまざまな伝達手段で外国人の皆さんに届けることによって、日本にいながらにして「地の果てにまで」キリストの証人となることができます。
証しを文書(文字)にする過程で、聖霊の働きにより、自分の信仰が明確になってきます。それを人々に配布・送信することによって、人々の批判に耐え得るように、自分がその証しにしっかり立つようになります。自分の書いた証しによって人々が励まされたり、救いに導かれたりすることを通して、キリストの喜びが増し加えられてきます。キリストの証しをすればするほど、キリストのすばらしさを新しく発見し、体験し、キリストにより強く結び合わされいくことができます。
聖書によれば、キリストこそは、唯一・絶対・永遠・無限・全知・全能なる神と一体なる方、神の独り子なる御子、天地万物の創造者・支配者、王の王、主の主、万軍の主、栄光の主、勝利の主、平安の君、とこしえの父。
また、キリストは、私たちの罪の身代わりとして命を惜しまず与えて下さった救い主、贖い主、私たちに永遠の命を与えるために死の力を克服してよみがえられた復活の主、やがて私たちを迎えに来てくださる再臨の主。
さらに、キリストは、私たちのためにどこにでもいて下さる遍在の主、私たちと共にいつもいて下さる臨在の主、私たちの心の内に住んでいて下さる内住の主。
そして、キリストは、完全なる聖にして、義にして、愛なる方、最強の力なる方、道であり、真理であり、永遠の命であられる方、あらゆる病の癒し主、すべての問題における助け主、あらゆる束縛から自由にして下さる解放の主、無限の恵みの与え主、最後の裁き主、大祭司なる方、最も良き教師・弁護人、最も慈しみ深い友なる方、最も謙遜なる方、私たちの長兄、教会の頭なる方、初めにして終わりなる方、そして私たちの花婿・夫となられる方であり・・・私たちにとって「すべてのすべて」であられる方です。私たちが証しをするのは、このようなすばらしいお方についてなのです。
もちろん、証しは文書(文字)以外の手段・方法によっても、有効になされています。面会による個人伝道、集会でのスピーチによる証しが基本ですが、テレホンメッセージ、ラジオ、テレビ、カセットテープ、ビデオ、ボイスメール、マンガ等の音声、映像、画像によってもなされています。
誰もが、インターネット・テレビを通じて、音声と映像と画像と文書(文字)を同時に用いた証しを、世界中のいたるとことで、あらゆる方々に対して、容易にできる時代が、もうすでに来ています。
日本と世界のリバイバルのために、隣人の魂の救いと励ましのために、自分の信仰の確立のために、天の父なる神によく祈り、聖霊に満たされ、聖霊の油注ぎを受けて、聖霊の力によって、あらゆる手段・方法によって、イエス・キリストの証しをさせていただきましょう。イエス・キリストの証人とならせていただきましょう。そして、神のすばらしい栄光を見させていただきましょう。
私は、あなたの義を心の中に隠しませんでした。あなたの真実とあなたの救いを告げました。私は、あなたの恵みとあなたのまことを、大いなる会衆に隠しませんでした。(詩篇40:10)
佐々木満男(ささき・みつお):弁護士。東京大学法学部卒、モナシュ大学法科大学院卒、法学修士(LL.M)。